2013/07/02

月報7月号

  「天におられるわたしたちの父よ。」 (マタイ福音書6章9節)

  45月と過ぎ、もう、あっという間に、夏休みも間近かになってきました。
  さて、キリスト教の幼稚園の生活では、子どもたちは、いつもお祈りをします。それに伴い、ご家庭でも、子どもと共にお祈りの手を合わせて、食事をいただくようになっていることではないでしょうか。〝感謝していただきます″から、さらに〝イエスさまのみ名によってお祈りします、アーメン。″が加わったのではないでしょうか。

たとえ、家の宗教は異なっても、この時は、みんな〝クリスチャン″になっていることではないでしょうか。
食事の前やおやつをいただく時にも、感謝の祈りをささげます。口にものを入れることは、生きていくために必要な「他のいのち」をいただいて、私たちの体を生かしていくための行為です。つまり、目を自分以外のものや存在に向けなければ、それがわかりません。好きなお肉も、牛や豚のいのちをいただいて、自分のいのちの中に取り組むのですし、野菜の成長にも、太陽や水や空気が必要です。食べ物は、いのち・自然の連鎖によって支えられています。祈りを通して、子どもの目が、素直な心が、周りに心の目を向けようとしているのです。加えて、作ってくれた人への感謝、すべてを用意してくれた神さまへの感謝です。



感謝の祈りに加えて、隣人のための祈りが加えられることもあるでしょう。病気で休んでいるお友だちのために、家族が病いを得ているなら、その家族のために、災害が戦禍の苦しみが、あればその被災された人々のために祈りをすることが起こってくるでしょう。



祈りは、素朴な心を始まりとして、こうあってほしいという願望や希望を表すことです。やがて、そこから始まって、自分がこれにどう向き合っていったらよいのかと発展していくことでもあります。


 そして、祈りは、不思議なもので、教科書のような文言によっては伝えられること少なく、祈りの言葉を聞いてそれを自然なうちにおぼえます。いわば、口伝なのです。百の説明を聞くより、一つの祈りを聞いて覚えるのです。言葉に込められた真実で聖なるものに向かい合う態度がここに伝わっているのです。


「きょう一日」は、決して、自然に与えられたのではなく、まさに、“奇跡”なのではないでしょうか。なぜ、私にきょう一日が与えられ生きているかは、私の内には答えを見いだせません。感謝しつつ一日をすごし、苦しみの中にある人々のことをも心にとめて生活をしていきましょう。 そう、私たちは、祈りによって、子どもから教えられることはたくさんあることに気づきます。


      熊本・玉名ルーテル教会 牧師 杉本洋一