2014/07/26

7月27日の礼拝 福音書

 マタイによる福音書 第11章25-30節
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

2014/07/18

7月20日の礼拝 福音書

 マタイによる福音書 第10章34-42節
 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである。
 人をその父に、
 娘を母に、
 嫁をしゅうとめに。
 こうして、自分の家族の者が敵となる。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」


 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 はっきり言っておく、わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

2014/07/12

7月13日の礼拝 福音書

 マタイによる福音書 第10章16-33節
 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。 人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる。 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族のものはもっとひどく言われることだろう。」


 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 わたしが暗闇であなたがに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間である
と言い表す。 しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

2014/07/05

7月6日の礼拝 福音書

 マタイによる福音書 第9章35節-第10章15節
 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 行って、『天の国は近
づいた』と宣べつたえなさい。 病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働くものが食べ物を受けるのは当然である。 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳も傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地のほうが軽い罰で済む。」

2014/07/03


「言葉に聞き従う歩み」 
 
 
       
      熊本ルーテル教会 牧師 杉本洋一

「その時代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(創世記6:9

 

例年経験する梅雨の天候は、年により、所によって、想像を超える大きな変化を見せます。この前、東京三鷹では、では、雹(ひよう)が、一メートルを超えるほど降ったというニュースを聞きました。しかも、それが一部に集められて、ひどい床上浸水があったとのことです。3年前に起こった阿蘇での豪雨・白川の堤防決壊も思い起こします。最近では、竜巻も、集中豪雨によって災害が起こることさえも、決してよその世界の事でなく、しかも、他人事として聞くことはできません。

主の言葉に聞き従ったノアは、来る日も来る日も、箱舟をつくる仕事に追われました。箱舟の大きさも、半端なものではありません。長さは、三百アンマです(創世記6:15135メートル)。どのように作ったかを頭の世界で想像をすることは、今の技術があるわけではありませんから、当時のことを考えれば、簡単に作れたものではなかったはずです。協力者という手伝いが、どれほどいたことでしょうか。しかも、手の数が多少確保されも、継続して手伝ってくれる人の確保が、どれほど難しかったのではないでしょうか。食べる糧も確保しながらの箱舟つくりは、やはり私たちの想像を越えます。「なんで、こんないい日に船なんか作っているのか」「頭がおかしいんじゃないのか」「なせ、こんな場所に船が必要なんだ」との周りの声はたくさん聞こえてきます。

私たちも、日々の仕事や生活を送る中で、それ以外のことに精を出せば、周囲の声・ささやき・うわさを耳にするのは簡単なことです。仕事と趣味が区別つかなくなったという声も聞きます。はじめからできないことをやっているとか、空しい徒労と人間性への疑い、様々な目が注がれることに違いありません。

していることの目的、目標が見えません。なすことの主体は神さまであり、ノアは聞き従うのみです。神さまの言葉に聞き従う人の姿は、人々の目からは、奇異な、異常とさえ見える姿に映ったに違いありません。

晴れの日が続きます。そのような時に、ぽつんぽつんと、額や体に雨を感じはじめ、やがて、その雨は、水かさを増し、川から水があふれ、平野に水が覆い、山々が水で埋めされ尽くされていったのです。雨が降り続く日々だったのです。その時に、ノアの耳にした神さまの言葉がなんだったのか一人一人に思い出されるのです。

 
「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わないものは、皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ7:2627

 
しっかりとした土台の上に、自分の家を建てる教訓は、よく聞くところです。しかし、上の聖書の言葉は、人生の土台ということより、主の言葉に耳を傾けるかどうか、聞き従うかどうか、本当に心から聞こうとするのかです。

どのような時にも、私たちは、変わることのない神さまの言葉に、耳を傾け、従っていきたいと願っています。