2020/05/23

家庭礼拝のために。5月24日のために。


524 復活後第七主日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

日常生活に向けて社会は少しずつ動き出しています。教会も、67日よりの礼拝再開に向けて、準備しています。しばらくの辛抱をお願いいたします。マスクや入り口での殺菌液の用意・間隔をあけた着席など新しい生活様式がありますが、いろいろなものを準備し、工夫をして、皆さんとお会いできる日を心待ちにしております。   杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団90(ここもかみの)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

栄光の神さま。み子イエス・キリストは私たちのために苦しみを受け、あなたの右に昇られました。私たちが苦しみの時も喜びの時もキリストとひとつに結び付け、世界をあなたの慈しみ深い臨在のもとにおいてください。あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録1:6-14

第二日課  1ペトロ4:12-155:6-11

福音書    ヨハネ 14:1-11

1イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 2あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 3永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。 5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

6世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。 7わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。 8なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。 9彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。 11わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 

讃美歌 教団310(しずけきいのりの)

 

説教  「あなたは、永遠の命に生きる」 ヨハネ福音書14:15-21

有名なドイツの哲学者(ハイデッガー)は「人は自分の死を信じていない」と言いました。私たちは、心の中で、自分は死なないと思っていると言うのです。しかし、それでも、身近な人の死は、自分にも死が起こるんだということを感じさせます。誰もよく親しまれた志村けんさんの死は、死を身近に感じさせました。加えて、この新型コロナウイルで亡くなった方が、世界で30万や40万人にものぼると聞けば、この病気の感染は、相当なもので、大きな出来事なんだとつくづく感じさせます。昔のことですが、私が小学生の頃に、近所の靴屋のタツちゃんが、人の命はお金があれば、いくらでも延ばすことができると言ったことが、妙に記憶に残っています。彼の家に病気のおじいちゃんがいたことや、金持ちだったこともあるかもしれません。でも、よく考えてみると、あながち、これはウソではありません。確かに、膨大なお金をかけ、高度な医療を用いてすれば、死期を多少は延ばすことはできるでしょう。しかし、決して、死を無くすことはできません。

新型コロナウイルスは、私たちに、「死」や「命」について深く考えさせました。

 

今日の聖書には、「永遠の命」という言葉が語られます。ずっと昔から人間は、生き続けることについて考えてきたと思います。そのために、不老長寿の薬を求めてきました。朽ちることのない永遠の美を求めてきました。たとえ、この身が滅んでも、自分が生きた事実が残るように、巨大な墓・建造物やしるしを刻んだりして、「永遠の命なるもの」を求めてきたと思います。

「永遠の命」と表現する言葉には二つの性質があります。「永遠」というのは、「終りなく続く」ということです。そして「命」は「限りある」ものです。つまり、‶死なない〟ということと‶死ぬ〟ものということです。永遠ということと命は、相容れないものですが、一つになっているものと気づきます。言っているのは、『永遠の命』とは、『いつまでも終ることのない、生きるための力』ということです。「永遠の命」とは、何かシンボルのようなイメージで、決してなくならないものとか、ずっとあり続けるもののような感じです。

その命を支えるために、私たちはいろいろなものを大切にしてきました。しばしば言われてきたのは、「私にとっては、お金が命です」です。こういう人にとっては、お金がその人を生かす力になるでしょう。「家庭が私の命です」これは、家庭がその人を生かす力であるということでしょう。健康・人間関係・趣味などなど、色々と、生きる力になるものがあると思います。

けれども、それが永遠に導くものであり、永遠の命につながるかと考えると、終りの無いものなんてこの世界にはありません。お金は無くなってしまえば自分を生かすことはできません。人であれ、健康であれ、それは、いつまでも、終ることなく、というわけにはいかないのです。

 

今、私たちは、私たちが描くぼんやりとした不確定な「永遠の命」のイメージについて、極めてストレートに、明確に「『永遠の命』とは、神さまを知り、イエスさまを知ることなのだ」聞きます。「神さまを知ること」と「イエスさまを知ること」は、ふたつで一つです。

別の箇所で、

「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」(147)、

「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(1245)と教えられました。イエスさまという方をじっと見つめると、神さまのことが分かる、というのです。

 

 今日の聖書の言葉は、イエスさまが復活後、弟子たちを訪ね、復活の事実を教えて歩く時に語られた言葉です。今年の復活節は、私たちは、新型コロナウイルスの感染拡大の中で過ごしています。全人類が死の不安の中にいます。その中にあって、私たちのために十字架にかかられたイエスさまは、復活された方として、家に閉じこもっている私たちのもとに来られ、私たちの中心に立ってくださいます。死の囲みの中で、私たちは人の子であるイエスさまを仰ぐのです。「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」と旧約聖書は伝え、人の子が上げられたのは「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」とヨハネ福音書は語ります。主を信じる者は、永遠の命を得るからです。

 

皆さん、心の中でイエスさまを思い描いてくださいませんか。十字架を思い描いてくださいませんか。その十字架は、イエスさまが十字架で命を捨ててくださるほどに、私たちを愛してくださるしるしです。イエスさまの十字架を見つめる時に、神さまの愛が見えてきます。その愛とは、たったひとりの子どもさえ与えてくださる、とてつもない大きな愛です。イエスさまを見るとは、自分がこのとてつもない愛で満たされ、愛されていることを知るということなのです。

この愛を知ることは、私たちが、どれほどに、神さまの目から尊い存在であるのかを知ることにつながっています。人が、どれだけ生きる力を失うことがあっても、お金の無さや、健康を損なうことがどれほどに、生きることを諦めさせようとしても、「あなたのためにイエスさまが十字架についてくださった」この事実を、無くすことは出来ませんいつまでも終ることがない、「永久保証」の愛なのです。この愛を知って「自分は、神さまのひとり子が命がけで愛してくださるほどに、特別で、大切な存在なんだ」このように受け取るなら、イエスさまを知ることは、その人を生きることへと駆り立てる、本当に素晴らしい力、その人の「命」となります。

神さまの愛の交わりは命の交わりです。皆さん。あなたは、その信仰の内にあるのです。

 

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。

 

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団517(われにこよとしゅはいま)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)