牧師挨拶/るうてる熊本






クリスマスのしるし

日本福音ルーテル熊本教会

牧師 杉本洋一

 

「「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカによる福音書 21112節)

 

フランスではテロが起き、大勢の方が犠牲となりました。音楽を楽しんでいる時に、家族や友達、恋人と楽しく食事や語らいをしている時に、銃が乱射されたのです。そして、身をかがめた人は助かり、状況をつかめずに、ただ立ちすくんだ人は、その銃にうたれたのです。その悲惨さに、言葉を失います。

もうすぐクリスマスがやってきますが、ジングルベルのBGMが流れるスーパーで安心して買い物をすることができる状況が、なんと悲惨さとは対極にある状況でしょうか。同様に、同じ地球の中で、争いによって故郷を失い、家をなくし、布団も食べるパンを持たずに、愛する子どもや家族を失い、苦しみの生活を余儀なくされる人々がいるのは大きな不幸であり、矛盾であり、現実です。

この事実に、人間とは、なんと小さな存在であり、持てる力は小さく、争いには無力です。しかし、神は苦しむ者をただ眺めるだけではなく、一緒に生きて、励ましと希望と喜びを与えてくださる方です。

「神はわたしたちと共にいる」姿をもって、わたしたちに愛と励ましと希望を与えてくださる。それがイエス・キリストの誕生の姿です。身重になっている母マリアに同情しない宿屋の主人は、マリアを部屋に受け入れず、家畜小屋に追いやりました。貧しいマリアとヨセフが生まれたばかりの赤ちゃんイエスに着せたものは、ボロボロの布、おしめにする布です。そして不衛生な飼い葉桶の中に寝かせます。神であるイエスは、蔑まれ、同情されない、貧しい者として生まれ、育ちます。しかし、その姿と幼子の笑顔は、蔑まれて、貧しい中で生きる羊飼いたちにとっては、神が自分たちと共にいてくださることを知り、喜びとなったのではないでしょうか。

 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

乳飲み子は小さな存在です。しかし、この赤子が、平和のために生きられた方なのです

十字架につけられたこの方こそ救い主・メシアとなったのです。「愛すること」を、身を持って示した方がお生まれになるのです。

  るうてる熊本 10月




「神さまの大きな愛を知った人」

           


熊本ルーテル教会 牧師 杉本洋一







「人が義とされるのは行いによってではない」(ローマ書3:28

 

あなたは、神さまを、どのような神さまとして描いておられるでしょうか。どのように神さまのことをイメージしているでしょうか。例えば、お父さんとしての神さまとお母さんとしての神さまは、捉え方が異なるでしょう。父権性が強いなら、男性的なイメージの「力」や「威厳」が表に出るでしょう。母なる神なら、「やさしさ」や「抱いてまもる」ことの印象が色濃く出るかもしれません。

さて、私たちのルーテル教会は、マルチン・ルターの流れを引き継ぐ教会です。このルターは、父・ハンスの強い願いのもとに、幼少の頃からラテン語を学び、寮に入らされ、算術、論理学などの学びをたくさんしました。エルフルト大学に法律の勉強のために、入学をしました。親は、官吏とか宰相にならせたいとの願いがあったからです。大学の休暇による帰省を終え、学校に戻る途中の道で、落雷に遭遇します。稲妻によって恐怖の体験をし、思わず、その時に口から出た言葉は、「修道士になります」というものでした。稲妻の体験も、想像してみただけでも恐ろしいものです。「修道士になる」というのも、深層心理からすれば、心の底にあったものが、恐ろしさの体験から、表に出て来たのでしょう。法律を用いた社会に接する職業より、目に見えない神さまと接する仕事の選択を思わず表明したのです。

厳しい日課に基づく彼の修道生活が始まり、聖書を読み、祈りや黙想の時を持ちました。しかし、あの時の、「修道士になります」との表明した時に感じていた神さまと、修道生活を送って、もっと深く、身近に感ずる神さまは、相変わらず厳しい方であり、裁きを感ずる神さまでした。決して愛の方とは程遠く、「ぬくもり」も「あたたかさも」感ずることなく、依然として、深い神さまの愛を知ることはありませんでした。修道生活をすればするほど、神さまは愛の方ではなく、厳しく、裁きの神でした。

修道生活というと人から見れば聖なる立派な生活でしょう。しかし、その「行い」によって、人は、清く聖なるものとされるのでないことを感ずるのです。そればかりか、修道生活において見えてくるのは、清さを勝ち取ろうとする自分の欲や醜さが頭をもたげ、ますます、神さまから離れていく自分を見つけるのでした。

結局、ルターは、それは自分で勝ち取ろうとしているものであり、「人が義(神さまの前に正しい)とされるのは、(律法の)行いによるのではない」(3:28)と気づくのです。しかし、それは、前からずっと聖書に書かれていたことだったのです。「行う」ことによってではなくて、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)が私たちに示されているのであり、「神の恵みにより無償で義とされる」(3:24)と確認したのです。神さまの大きな愛を知ったルターは、変わったのです。
 
 
 
 



「その時代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(創世記6:9


例年経験する梅雨の天候は、年により、所によって、想像を超える大きな変化を見せます。この前、東京三鷹では、では、雹(ひよう)が、一メートルを超えるほど降ったというニュースを聞きました。しかも、それが一部に集められて、ひどい床上浸水があったとのことです。3年前に起こった阿蘇での豪雨・白川の堤防決壊も思い起こします。最近では、竜巻も、集中豪雨によって災害が起こることさえも、決してよその世界の事でなく、しかも、他人事として聞くことはできません。

主の言葉に聞き従ったノアは、来る日も来る日も、箱舟をつくる仕事に追われました。箱舟の大きさも、半端なものではありません。長さは、三百アンマです(創世記6:15135メートル)。どのように作ったかを頭の世界で想像をすることは、今の技術があるわけではありませんから、当時のことを考えれば、簡単に作れたものではなかったはずです。協力者という手伝いが、どれほどいたことでしょうか。しかも、手の数が多少確保されも、継続して手伝ってくれる人の確保が、どれほど難しかったのではないでしょうか。食べる糧も確保しながらの箱舟つくりは、やはり私たちの想像を越えます。「なんで、こんないい日に船なんか作っているのか」「頭がおかしいんじゃないのか」「なせ、こんな場所に船が必要なんだ」との周りの声はたくさん聞こえてきます。

私たちも、日々の仕事や生活を送る中で、それ以外のことに精を出せば、周囲の声・ささやき・うわさを耳にするのは簡単なことです。仕事と趣味が区別つかなくなったという声も聞きます。はじめからできないことをやっているとか、空しい徒労と人間性への疑い、様々な目が注がれることに違いありません。

していることの目的、目標が見えません。なすことの主体は神さまであり、ノアは聞き従うのみです。神さまの言葉に聞き従う人の姿は、人々の目からは、奇異な、異常とさえ見える姿に映ったに違いありません。

晴れの日が続きます。そのような時に、ぽつんぽつんと、額や体に雨を感じはじめ、やがて、その雨は、水かさを増し、川から水があふれ、平野に水が覆い、山々が水で埋めされ尽くされていったのです。雨が降り続く日々だったのです。その時に、ノアの耳にした神さまの言葉がなんだったのか一人一人に思い出されるのです。


「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わないものは、皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ7:2627


しっかりとした土台の上に、自分の家を建てる教訓は、よく聞くところです。しかし、上の聖書の言葉は、人生の土台ということより、主の言葉に耳を傾けるかどうか、聞き従うかどうか、本当に心から聞こうとするのかです。

どのような時にも、私たちは、変わることのない神さまの言葉に、耳を傾け、従っていきたいと願っています。




るうてる熊本 5


「シャロームしてますか?」





「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子達がいた所では、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」ヨハネ福音書20:19






 「平安があなた方にあるように」との言葉は、シャロームといいます。

ヘブル語で、「おはよう」「今日は」「お元気ですか」など、日常の挨拶のことばです。十字架のキリストが、最も悲惨な十字架刑で処刑され、自分にも、その出来事が起こるかもしれないという不安恐怖の中にいる弟子たちに、この言葉で、声をかけられたのです。
 彼らは、愛する主を裏切ったという情けなさに悩み、無力な自分を責める思いもあったことでしょう。さらに、イエス様と同じ運命が自分たちを襲うかもしれないと恐怖を抱いていたことでしょう。
今年の327日は、イエスさまの復活日(イースター)でした。復活を信じられない弟子たちでしたが、やがて彼らは、この出来事によって、これまで言われてきた先生の言葉がどのような意味を持つものなのか、神さまの言葉をどう受け止めるのかを自分の中で思い起こし、気づくのです。そして、力強く神さまの言葉を伝えていくことになったのです。私たちの教会が、ここ建てられているのも、その出来事があったからにほかなりません。
 イースターは、喜びの出来事ですが、その背景は、人間の不信、不安と恐怖、絶望です。私たちも、弟子たちと同じように、これまでの人生において経験してきたことではないでしょうか。そのような、私たちに、自ら進んで、人間の中にお入りになり、出会い、交わり、平安・シャロームをもたらすためイエス・キリストは復活されたと聖書は言うのです。失望や苦しみ、不安や恐れに満ちた世に生きる私たちに平安をもたらすことこそ、生涯の目的と聖書は告げるのです。
 イスラエルの人々が「ご機嫌いかがですか」と相手に尋ねる時、「あなたのシャロームはいかがですか?」という意味です。「今日、あなたのシャローム、神様との関係はどうですか。神様とシャロームですか。神様の愛と赦しを受け取っていますか。それを喜んでいますか。そこから力をいただいていますか。」
こんな風に聞かれたら、皆様はどう答えるでしょうか。これは神さまからの挨拶であり、問いかけでもあります。
熊本ルーテル教会 牧師 杉本洋一


12月
『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、
みこころにかなう人にあれ。』 (ルカ2:14

   日本福音ルーテル熊本教会 牧師 杉本洋一



クリスマスの一つの「しるし」は、「星」です。イルミネーションは、それを見上げるように星が飾られています。この熊本教会の玄関にも、壮年会が力を合わせて、新しい美しい電飾のイルミネーションを設置しました。




旧約聖書の冒頭にアブラハム物語があります。彼は、神さまの命令で、約束の地カナンへ行くように命じられます。唐突のことでしたし、いくら神さまの命令と言っても、いきなり、先祖の地を離れて、遠いはるかかなたの地に行けとは、あまりに酷なことです。しかし、その言葉に従ったのでした。信頼を寄せていた神さまが、共におられると信じたからです。旅の途中でも、さ迷い進む中に、いつも、「星」が、頭上に輝いていたのです。 


「星」は道しるべであり、希望であり、支えだったのです。きっと、彼は、「星」を見て、神さまが一緒にいる心の平安を得たのでした。




アブラハムの時は終わり、それから、やがて、たいへんな年月が流れました。


イエス・キリストの誕生の出来事は、「星」の輝きで知らせ、暗き世に、光を必要としていた人々に、救いの出来事としてもたらされました。

いつでも、どのような時にでも、「光」の輝きは、暗ければ暗いほど、その輝きを増します。名も無く貧しい人々に、救いの喜びの知らせは、知らされたのでした。


今日の時代は、ほんとうの心の平安が、必要とされている時代だと思います。

 私たちは、生活の中で行き詰まることもあるのです。生産性が追及され、効率の上から、小さく弱い存在は切り捨てられます。そのような中で、誰も、逃れることのできない死や、病気の出来事を抱えています。アブラハムの出来事は、人生というの「旅」に導く「星」という「光」でありましたし、イエス・キリストの誕生も、暗い闇路を歩む人生に、神さまは「星」を与えていてくださいます。


 クリスマスの時が来ました。さあ、顔を上げて、天の輝く、「星」を見てみようではありませんか。あなたを導く光、「星」が輝いているに違いありません。

もちろん、新しい年においてでも。

主が共に歩んでくださることを心に刻みたいと思います。






「あなた方に平和があるように」(ヨハネ福音書2021)

 今年の日本の夏は、観測史上一番の「暑い夏」でした。あまりの暑さに、体の動きも、やる気もなえてしまうこともしばしばありました。皆さんは、いかがでしたか。そんな時に、「いつやるか」「今でしょ!」ということばを、子ども、若い人たち、大人からも、耳によくしました。流行語として、ブレイクしたんですね。私なんか、「確かにねぇ、今やらないと先に進まないしね」と、後ろから押されるように、生活に励んだのでした。


英語のことわざに、「今日しなければならないことを、明日にのばすな」“Never put off till tomorrow what you can do today.”というのがあります。能率と効率を求める社会では、全くその通りで、今やらなくて、どうして目標が実現できるのかという叱咤激励の言葉が響いて来そうです。夏休みの宿題を終わらないで、焦る気持ちだけが残った小学校の時を思い出します。

この逆の表現のことばがあるのをご存知ですか。


クリスチャンであった遠藤周作が、「ぐうたら人生入門」で、「明日しなければならないことを、今日するな」というのを。これは、トルコのことわざだそうです。



ことばが、「明日」と「今日」とが入れ違っただけで、前者は、世の中の人々が努力して追及していく生活態度を感じさせますし、後者のトルコの言葉は、ゆったりとした自然の流れに沿った言葉です。いい加減で、ずぼらな生活態度とも受け取られないのですが、何となく、包み込まれる安心感を与えます。



私が若かった時は、前者の言葉で生きていたと思います。そして、だんだん年を重ねるうちに、後者のようになってきた感じがします。また、それぞれ人間が生きている時代へも、生き方の、時間の使い方へも反映させられるでしょうね。



イエスさまにつながって私たちキリスト者は、ゆったりとした落ち着いた日々生活を送っていきたいものだと考えます。 感謝をもって、喜んで生きるには、どう、「今」という時間と向き合い、これを、捉えっていったらいいのかを考えてみたいものです。


杉本洋一

月報るうてる8月号

「時がよくても悪くても」(Ⅱテモテ4:2


                                 杉本 洋一

ちょうど一か月半前に小型ヨット・エオラス号で太平洋横断に挑戦し、出発後6日目に、浸水のために船体放棄を余儀なくさせられたニュースがありました。熊本ライトハウス出身で、この熊本教会の英語礼拝にもよく出席していた全盲の岩本光弘君です。ニュースキャスターの辛坊治郎さんと一緒に、救命ボートに移乗し、漂流すること11時間。その日の夕方6時過ぎ、海上自衛隊の果敢な救難活動により無事救助されました。


私は、その後、彼がどうしているんだろうかと、いつも、気にかかっています。マスコミに叩かれましたから、相当な落胆を経験しているのではないかと思うからです。勇敢な自衛隊員によって支えられたことは報道されるべきだし、いのちを大事に思う人間ならだれも、助かってよかったのを一緒に喜ぶべきです。しかし、税金がどのくらい使われたとかの理由を付けられ、無謀な計画だと批判されるのは、行き過ぎていないだろうかと考えさせられます。


私には、どんなスポンサーがついていたかとか、計画の裏舞台は知る由はありません。残念に思うのは、勇気を持ったチャレンジャーが、パッシングによって、潰されようとすることです。障がいを持っていても、健常者と同じようにやれるんだという不屈の精神によって新しい歴史と記録はいつも塗り替えられてきたと思います。


もし、こんな時に、モード・パウラス先生だったらなんと声を書けただろうかと思います。あるいは、エリス先生ならなんと声をかけたでしょうか。そして、イエスさまだったら、なんと彼に声をかけただろうかと想像するのです。


マスコミによって一斉に非難されたあの計画は、もう一度実行に移されることはないのでしょうか。あれは、社会を敵に回すほどの報道によって、無謀な太平洋横断の計画だったと決めつけられるのでしょうか。障がいを抱える人たちの代表としての岩本君による挑戦だったと私は思います。


彼もルーテルの福祉の中で育てられ、み言葉にも触れた人間です。叩かれたことに負けないで、もう一度、チャレンジャーとして、やってみてほしいと思います。


(※辛抱さんは、司会者の職務復帰をされた記事を83日の新聞で見つけました)

月報るうてる7月号
 「天におられるわたしたちの父よ。」 (マタイ福音書6章9節)

  45月と過ぎ、もう、あっという間に、夏休みも間近かになってきました。
  さて、キリスト教の幼稚園の生活では、子どもたちは、いつもお祈りをします。それに伴い、ご家庭でも、子どもと共にお祈りの手を合わせて、食事をいただくようになっていることではないでしょうか。〝感謝していただきます″から、さらに〝イエスさまのみ名によってお祈りします、アーメン。″が加わったのではないでしょうか。たとえ、家の宗教は異なっても、この時は、みんな〝クリスチャン″になっていることではないでしょうか。


食事の前やおやつをいただく時にも、感謝の祈りをささげます。口にものを入れることは、生きていくために必要な「他のいのち」をいただいて、私たちの体を生かしていくための行為です。つまり、目を自分以外のものや存在に向けなければ、それがわかりません。好きなお肉も、牛や豚のいのちをいただいて、自分のいのちの中に取り組むのですし、野菜の成長にも、太陽や水や空気が必要です。食べ物は、いのち・自然の連鎖によって支えられています。祈りを通して、子どもの目が、素直な心が、周りに心の目を向けようとしているのです。加えて、作ってくれた人への感謝、すべてを用意してくれた神さまへの感謝です。



感謝の祈りに加えて、隣人のための祈りが加えられることもあるでしょう。病気で休んでいるお友だちのために、家族が病いを得ているなら、その家族のために、災害が戦禍の苦しみが、あればその被災された人々のために祈りをすることが起こってくるでしょう。


祈りは、素朴な心を始まりとして、こうあってほしいという願望や希望を表すことです。やがて、そこから始まって、自分がこれにどう向き合っていったらよいのかと発展していくことでもあります。


 そして、祈りは、不思議なもので、教科書のような文言によっては伝えられること少なく、祈りの言葉を聞いてそれを自然なうちにおぼえます。いわば、口伝なのです。百の説明を聞くより、一つの祈りを聞いて覚えるのです。言葉に込められた真実で聖なるものに向かい合う態度がここに伝わっているのです。


「きょう一日」は、決して、自然に与えられたのではなく、まさに、“奇跡”なのではないでしょうか。なぜ、私にきょう一日が与えられ生きているかは、私の内には答えを見いだせません。感謝しつつ一日をすごし、苦しみの中にある人々のことをも心にとめて生活をしていきましょう。 そう、私たちは、祈りによって、子どもから教えられることはたくさんあることに気づきます。


      熊本・玉名ルーテル教会 牧師 杉本洋一

 

月報るうてる6月号


わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。” (雅歌4:7)


人は誰も、幸福を求めます。
どんな境遇に置かれても、幸せでありたいと願って生きているとも言えるでしょう。時として、生活において、不幸が訪れる事があります。でも、不幸であることを自ら求めて生きた人は誰もいません。
たとえ、その人の人生に困難が備えられていたように見えても、それを、はじめから、真正面から受け止めて歩んで来たのではないでしょう。結果的に、逆境を受け止めたことになったのでしょうし、もしかすると、そのような人を、多くの人は勇敢な人と呼ぶことが多いでしょう。この中には、生まれながらに苦しみを背負わされたように見える人生もあるでしょう。


信仰生活は、私たちに、生きる支えを伝えます。神の眼は、人の眼に、立派であるようにというのではなく、どんな人間も、美しくあって、そのままで生きていて良い!と映っていることを、確認させるのです。神は、いろいろな形、やり方、方法で、人間を愛してやまず、見捨てないのです。
先が見えない人生の歩みの時にも、「私はここにいる、しっかりするのだ」と神の子・イエス・キリストは、私たちに語られます。神の霊も、目には見えなくとも、「私たちを導かれ」、私たちを神のもとに立ち返らせるのです。私たちは、先日の日曜日に「三位一体の日」を迎え、「三位一体」という言葉を耳にしました。父、子、聖霊というのは、神の人間に対しての「働き方」の説明です。唯一の父なる神と子と聖霊の関係を適切に説く、表し方です。
旧約聖書の神は、人間をはるかに超越した世界を創造した神であり、聖なる正義の神であり、時としては不信仰、不従順な民に対して嫉妬し怒りを発する神です。そして新約聖書の福音書には、イエス・キリストが明らかにした父なる神が示され、使徒言行録にはさらに、聖霊としての神のはたらきが示されています。
 神は三つの働き方において働かれる調和の神であり、神の力と愛が今もここに働いているということで、この力がこの私たちの生活にも働くのです。

  「さんみいったい」って、「いったい」何のことだろうかと思われるかもしれません。そうです、神さまは、どんな時にも、いろいろな、姿を変えて、〝あなたを愛している〟と言い続けてくださっていることの表しなのです。

熊本教会では、日曜10時半からの主日礼拝の他に夕礼拝をしています。夜7時半~8時 静かな礼拝のひと時です。 どんな人も、招きの内にあります。


月報るうてる4月号より
「イエスさまからのおはよう!」 

                       マタイによる福音書281節~10

日本福音ルーテル熊本教会

 牧師 杉本洋一

 この4月に熊本教会に着任しました杉本洋一です。朝比奈先生同様に、皆さん、どうぞ、よろしくお願いいたします。


 私たちは、今年の331日にイースターを迎えました。主イエスさまのご復活をご一緒に喜び、気持ちを新たにする機会が与えられました。


 この水道町の教会の前を、制服やスーツも新しく中高生、社会員一年生が、学校・職場に向かう姿を見受けます。今まで過ごした学校から、さらなる違った環境へ行こうとするそれぞれの顔は、「緊張」と「不安」と「期待・希望」が交錯しているようでもあります。ひとつの人生の節目を感じさせる時です。


 ちょうど生活する環境が変わったように、聖書の言葉を通して伝わってくるのは、イエスさまに従う弟子たちにも、まったくこれまで味わったことのなかった生活が待ち受けていたのです。今でこそ、私たちは、「新しい」とか「喜ぶ」とか言いますが、「天地がひっくり返るほどの驚き」であり、これまで体験したことのなかった「驚き」であり、「信じられない出来事」でした。


 イエスさまの亡骸(なきがら)があるはずの墓は、空っぽで、「あの方(イエス)はここにおられない」と天使は告げるのです。すぐには信じきれないのが人間です。マリアもそうでしたし弟子たちもそうでした。疑いを持つ、信じきれない者へのこの言葉は、信じることへと心を向け促されることばです。


 弟子たちが見た復活のイエスさまを、手と足があるのかと、幽霊でも見ているかのように、にわかに不信な心をいだきます。それは当然です。今まで、見て知って味わったことのない経験だったからです。そして、イエスさまは、「恐れることはない」との言葉を伝えます。


 徹頭徹尾、首尾一貫して神さまは、人間の信じきれない弱さの中にある者へ、神さまのやり方を通して、私たちの心に向かって、寄り添おうとされています。


固く閉ざした心に対して、私たちの心に「平安」を求め、「優しさとゆるし」の中に生きるようにと願っているのです。


 「おはよう」という言葉が、この箇所に出てきますが、毎朝、「おはよう」との言葉をイエスさまが、あなたへ言っていてくださいます。たとえ苦しみの中にあっても、逆境にあっても、弱さの中にあっても、生きる希望へ招かれています。


 閉じた心へ神さまのあたたかい言葉がいつもあることを信じて日々の歩みを続けていこうではありませんか。