2020/05/29

家庭礼拝のために。5月31日のために。


531 聖霊降臨日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

今年の531日は、教会の大事な記念の日であるペンテコステ・聖霊降臨日です。私たちは、コロナ感染対策のためにこの日集まることができませんが、それでも、ちゃんと神さまは私たちに、聖霊を注いでくださいます。このことを、しっかり心に刻みたいと思います。一か月半ぶりに67日より礼拝が再開されます。  杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団177(かみのいきよ)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

神さま。あなたはこの日、あなたを信じる者に聖霊を送って心を開いてくださいます。聖霊の光で導き、私たちがすべてにおいて正しく判断し、あなたの平和の内にいつも喜ぶことができるようにしてださい。あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録2:1-21

第二日課  1ペトロ12:3-13

福音書    ヨハネ 20:19-23

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

讃美歌 教団333(しゅよ、われをば)

 

説教  「ゆるされていることを忘れない」 ヨハネ福音書20:19-23

今、生活様式が変わると言われ始めています。日常のマスクはもちろんのこと、飛沫感染防止の衝立やシールド、座り方や、座る方向まで変わろうとしますし、通勤方法・働き方や、どの仕事が生き残るとかも、予言的に語られています。日常というものは、このようにして、突然、ガラッと変わることがあるのを忘れてならないでしょう。

私は、牧師として、本来、人は、心と心の接触の中で育ち、ぬくもりの触れ合いを求めているものですが、これから、ソーシャルディスタンス(=人と人との物理的距離を保つこと)からはじまって、人と人との心の間隔が広がっていくことが心配になります。

 

さて、今日はどのような日かと言えば、聖霊が、弟子たちの内面に働きかけ、すべての人が救われるようにと、弟子たちのうえに下り、これによって、彼らが全世界へ、神さまのことを伝えるために出かけていくことになった記念の日です。だから、別の言い方で、‶教会の誕生日〟とも言ったりします。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 (使徒言行録2:1-4

イエスさまを信じる群れは、いろいろな言葉で語りはじめ、愛の心をもって諸国民へ仕える旅に出かけていったのです。(キリストの復活から50日目の日曜日をペンテコステ(ギリシャ語で50の意)と言いました)

 

コロナの影響で、人の心の交流がどうなるか心配する中で、このペンテコステの言葉に勇気づけられます。そうだ、ちゃんと聖霊の導きがあるから、私たちは、「励まされ歩んでゆくことができるんだ」と聞いて、心強くなります。

 

 福音書の言葉に、弟子たちは、復活したイエスさまのことを聞かされて、復活を信じられなかったとあります。あれほど常日頃から教えを受け、信頼することを学んだはずの人々でした。そのような中、彼らが集まっていた時、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたの心が穏やかになるように」と語り、手とわき腹を見せて、「シャローム(平和があるようにという挨拶)」と言いました。主は、言葉をかけただけでなく、弟子たちに体を見せました。彼の手とわき腹の十字架にかけられたときの釘の跡、槍で体を貫かれた痛々しい傷跡をです。イエスさまの手とわき腹に残るこの傷は、弟子たちがリーダーであるイエスさまを見殺しにした動かぬ証拠でもありました。弟子たちは、逮捕されたイエスさまを見捨てた当事者であり、咎められてもしょうがない後ろめたさ信頼することのできなかった弱さを痛いほど感じていたことでしょう。しかし、イエスさまは弟子たちを咎めることなく、体を見せてもう一度、シャロームと言ったのでした。

弟子たちは生々しい傷跡の残るイエスさまを見て、自分たちが犯した、言い逃れのできない罪に直面したことと思います。そしてイエスさまから「なぜわたしを見殺しにしたのか」と責めを受けると覚悟し、心が不安と恐怖で満たされていたところに、イエスさまから「あなたがたに平和があるように」という言葉を与えられました。この言葉は弟子たちにとって、裁きを予想していたところに訪れた、まったくもって予期しないゆるし〟でした。イエスさまに咎められる、裁かれる、そういう不安と恐怖に満ちていた弟子たちの心が一気に解放されたことでしょう。自らが犯した罪に対する裁きから逃れられないと感じている人、いよいよいままでのツケを支払う時が来たと自覚している人にとって、ゆるされるということは何物にも代えがたい喜びに他なりません。

 

「あなたがたに平和があるように」。ヘブライ語の翻訳では、シャローム・ラーカムです。「シャローム」は「平和」、「ラーカム」とは「あなたがたに」を意味します。シャロームという言葉は平和以外に平安という意味もあり、心が穏やかな状態を指しています。ユダヤ人にとって心が穏やかになるのは、神さまが共にいてくださると感じるときです。日本人も似たような感覚を持っていると思います。受験や手術など大事のときに神社のお守りをぎゅっと握り締めるのは、不安の中にあっても神さまがこの場にいて力を発揮してくださいと祈っているのでしょう。

  弟子たちはイエスさまから負い目を赦され、喜びに満たされました。イエスさまは続けて弟子たちに、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と語りました。このセリフは難しいことではなく、「あなたがたがわたしに赦されてうれしかったのなら、あなたもあなたに対して罪を犯し、裁かれるべき人、裁かれて当然な人をゆるしてあげなさい」ということです。私たちがゆるされる喜びを伝播させていけば、この世から不安は消え、世界が平和に満たされる、そう語っているのです。

 聖霊降臨は、弟子たちが、全世界へ出ていくことになった日です。いま、私たちもイエスさまの弟子です。ゆるしの中で生きています。宣教の旅に出かけて行ったということは、私たちの日常の生活という旅の中で、神さまの愛を携えて生活していきなさいということです。

日常生活の中で、わたしたちはつい自分の思いが先行して、他人を裁いてしまいます。ゆるされて生きているわたしたちですから、ゆるされた喜びのうちに生きていきたいと思います。「あなたがたに平和があるように」というのは、私に与えられた言葉ですが、私たちに与えられた言葉です。イエスさまは、私たち一人ひとりに語り掛けてくださっています。

 

これからの私たちの社会が、たとえ変わっていこうとも、心に壁や隙間ができることのないように、祈っていきたいと思います。そのために、神さまの愛の中に生かされているあなたを、神さまは必要となさるのです。

 

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。

 

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団520(しずけきかわのきしべを)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)

2020/05/23

家庭礼拝のために。5月24日のために。


524 復活後第七主日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

日常生活に向けて社会は少しずつ動き出しています。教会も、67日よりの礼拝再開に向けて、準備しています。しばらくの辛抱をお願いいたします。マスクや入り口での殺菌液の用意・間隔をあけた着席など新しい生活様式がありますが、いろいろなものを準備し、工夫をして、皆さんとお会いできる日を心待ちにしております。   杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団90(ここもかみの)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

栄光の神さま。み子イエス・キリストは私たちのために苦しみを受け、あなたの右に昇られました。私たちが苦しみの時も喜びの時もキリストとひとつに結び付け、世界をあなたの慈しみ深い臨在のもとにおいてください。あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録1:6-14

第二日課  1ペトロ4:12-155:6-11

福音書    ヨハネ 14:1-11

1イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 2あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 3永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。 5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

6世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。 7わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。 8なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。 9彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。 11わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 

讃美歌 教団310(しずけきいのりの)

 

説教  「あなたは、永遠の命に生きる」 ヨハネ福音書14:15-21

有名なドイツの哲学者(ハイデッガー)は「人は自分の死を信じていない」と言いました。私たちは、心の中で、自分は死なないと思っていると言うのです。しかし、それでも、身近な人の死は、自分にも死が起こるんだということを感じさせます。誰もよく親しまれた志村けんさんの死は、死を身近に感じさせました。加えて、この新型コロナウイルで亡くなった方が、世界で30万や40万人にものぼると聞けば、この病気の感染は、相当なもので、大きな出来事なんだとつくづく感じさせます。昔のことですが、私が小学生の頃に、近所の靴屋のタツちゃんが、人の命はお金があれば、いくらでも延ばすことができると言ったことが、妙に記憶に残っています。彼の家に病気のおじいちゃんがいたことや、金持ちだったこともあるかもしれません。でも、よく考えてみると、あながち、これはウソではありません。確かに、膨大なお金をかけ、高度な医療を用いてすれば、死期を多少は延ばすことはできるでしょう。しかし、決して、死を無くすことはできません。

新型コロナウイルスは、私たちに、「死」や「命」について深く考えさせました。

 

今日の聖書には、「永遠の命」という言葉が語られます。ずっと昔から人間は、生き続けることについて考えてきたと思います。そのために、不老長寿の薬を求めてきました。朽ちることのない永遠の美を求めてきました。たとえ、この身が滅んでも、自分が生きた事実が残るように、巨大な墓・建造物やしるしを刻んだりして、「永遠の命なるもの」を求めてきたと思います。

「永遠の命」と表現する言葉には二つの性質があります。「永遠」というのは、「終りなく続く」ということです。そして「命」は「限りある」ものです。つまり、‶死なない〟ということと‶死ぬ〟ものということです。永遠ということと命は、相容れないものですが、一つになっているものと気づきます。言っているのは、『永遠の命』とは、『いつまでも終ることのない、生きるための力』ということです。「永遠の命」とは、何かシンボルのようなイメージで、決してなくならないものとか、ずっとあり続けるもののような感じです。

その命を支えるために、私たちはいろいろなものを大切にしてきました。しばしば言われてきたのは、「私にとっては、お金が命です」です。こういう人にとっては、お金がその人を生かす力になるでしょう。「家庭が私の命です」これは、家庭がその人を生かす力であるということでしょう。健康・人間関係・趣味などなど、色々と、生きる力になるものがあると思います。

けれども、それが永遠に導くものであり、永遠の命につながるかと考えると、終りの無いものなんてこの世界にはありません。お金は無くなってしまえば自分を生かすことはできません。人であれ、健康であれ、それは、いつまでも、終ることなく、というわけにはいかないのです。

 

今、私たちは、私たちが描くぼんやりとした不確定な「永遠の命」のイメージについて、極めてストレートに、明確に「『永遠の命』とは、神さまを知り、イエスさまを知ることなのだ」聞きます。「神さまを知ること」と「イエスさまを知ること」は、ふたつで一つです。

別の箇所で、

「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」(147)、

「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(1245)と教えられました。イエスさまという方をじっと見つめると、神さまのことが分かる、というのです。

 

 今日の聖書の言葉は、イエスさまが復活後、弟子たちを訪ね、復活の事実を教えて歩く時に語られた言葉です。今年の復活節は、私たちは、新型コロナウイルスの感染拡大の中で過ごしています。全人類が死の不安の中にいます。その中にあって、私たちのために十字架にかかられたイエスさまは、復活された方として、家に閉じこもっている私たちのもとに来られ、私たちの中心に立ってくださいます。死の囲みの中で、私たちは人の子であるイエスさまを仰ぐのです。「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」と旧約聖書は伝え、人の子が上げられたのは「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」とヨハネ福音書は語ります。主を信じる者は、永遠の命を得るからです。

 

皆さん、心の中でイエスさまを思い描いてくださいませんか。十字架を思い描いてくださいませんか。その十字架は、イエスさまが十字架で命を捨ててくださるほどに、私たちを愛してくださるしるしです。イエスさまの十字架を見つめる時に、神さまの愛が見えてきます。その愛とは、たったひとりの子どもさえ与えてくださる、とてつもない大きな愛です。イエスさまを見るとは、自分がこのとてつもない愛で満たされ、愛されていることを知るということなのです。

この愛を知ることは、私たちが、どれほどに、神さまの目から尊い存在であるのかを知ることにつながっています。人が、どれだけ生きる力を失うことがあっても、お金の無さや、健康を損なうことがどれほどに、生きることを諦めさせようとしても、「あなたのためにイエスさまが十字架についてくださった」この事実を、無くすことは出来ませんいつまでも終ることがない、「永久保証」の愛なのです。この愛を知って「自分は、神さまのひとり子が命がけで愛してくださるほどに、特別で、大切な存在なんだ」このように受け取るなら、イエスさまを知ることは、その人を生きることへと駆り立てる、本当に素晴らしい力、その人の「命」となります。

神さまの愛の交わりは命の交わりです。皆さん。あなたは、その信仰の内にあるのです。

 

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。

 

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団517(われにこよとしゅはいま)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)

2020/05/20

土曜夕礼拝・聖研の開始について

休止していました土曜夕礼拝・聖研の開始に向けて
 
次の様に暫時開始いたします。

土曜夕礼拝(18:00-) 5月23日(土)より開始いたします。
聖研(水曜10:00-)  5月20日(水)より開始いたします。

なお、日曜礼拝は、6月7日(日)10:30- より行います。

2020/05/14

家庭礼拝のために。5月17日のために。


517 復活後第六主日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

教会の前に、この式次第・説教を封筒に入れて、通りゆく方に持って行ってもらおうと置いておきました。429日の週3部、53日の週7部、510日の週9部、と持って行ってくださる方がおられました。少しでも、神さまからの慰めと平安が与えられたらと思います。季節はもう、初夏を感じるころです。沖縄では梅雨に入ったと聞きます。等しくめぐみの中で生かされていることを思います。17日からの週も神さまのみ恵みに生かされて、お過ごしくださいますように。   杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団298(やすかれ、わがこころよ)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

永遠に生きておられる全能の神さま。あなたは天と地のすべてを一つに結び付けてくださいます。豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもたちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を授けてください。あなたと聖霊とともにただ独(ひと)りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録17:22-31

第二日課  1ペトロ3:13-22

福音書    ヨハネ 14:1521

15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 

讃美歌 教団292(はてしもしらぬ、うきよのうみの)

 

説教  「あなたは忘れられていない」 ヨハネ福音書14:1521

先週の日曜日は「母の日」でした。母の愛を心にとめて、感謝する日でした。今年の母の日は、新型コロナウイルスの影響で、カーネーションを渡したり、送ったりすることもできないような日だったかもしれません。また、天国のお母様へカーネーションを送った方もおられるでしょう。

悲しいことですが、世の中には、その母親の手に触れない子どもがいます。かって、日本中に、捨てられた子どもが多くいましたが、現在では少なくなったとはいえ、全く無くなったのではありません。「こうのとりのゆりかご」(「赤ちゃんポスト」)です。ここから車で10分ほどの、島崎の慈恵病院にあります。そこに預けられた子どもたちが、やがて養子になったり、里親に育てられたりしていますが、それができない子どもたちもいることでしょう。乳児院や施設で育てられる子どもあるとのことです。私たちの身近に知る婦人宣教師モード・パウラスは、たくさんの子どものお母さんとなりましたが、熊本で、このような働きが興(おこ)されるのは、パウラス先生の働きともつながっていることと思います。

 

子どもを捨てたくて、捨てる親など、いないでしょう。いいとか悪いというのではなく、そこには、そうせざるを得ないさまざまな理由があるのでしょう。そうしたことを解決するために、母親が子どもを捨てるといったことが起こらないようにと、さまざまな取り組みがなされてきました。しかし、それを防ぐことができない悲しい現実があります。神さまは、さまざまな理由で、母から捨てられた子ども、また、母の愛を十分に受けられなかった人たちに言われます。

 

「たとえ女(母親)たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ49:15

 

もしかすると、わたしたちの中にも、母の愛を十分に受けられなかったこともあるかもしれません。しかし、幼い頃や若い頃の心の傷がいやされるのは、簡単なことではないでしょうが、神さまの愛によって、それを補ってあまりあるものを受けることができるのです。信じる者は、神さまの愛によってそれを乗り越えることができる力強い言葉が与えられています。「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう」(詩篇27:10)とあるように、主に信頼する者を決して見捨てないとの確信・勇気を、この聖書の言葉に見出すのです。

 

今生きているわたしたちの時代は、いろいろな情報、価値観、様々な出来事、特に今回の世界的に起こった新型コロナウイルスのように、たくさんのものが錯綜して、目の前を飛び交っています。何が本当のもので、何に頼って歩んでいけばよいのかがわからない時代です。今日の聖句と一連の言葉、「こころを騒がせないがよい―信じなさい」(4:12)というのは、私たちが選び取っていかなければならない態度の勧めです。つまり、私たちの体と心がバラバラに引き裂かれてしまうことのないように、イエスさまを選び取り、信じ、生きていく態度のことではないでしょうか

 

弟子たちは、これからイエスさまが、「私はいなくなる」と告げられました。それは、父である神さまのもとへ帰るからです。これまでのように、イエスさまを身近に見ることや接することができなくなるからです。彼らは、不安を抱いたのです。孤独になるからです。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」どうしたらよいのかと尋ねたのです。イエスさまは、「別の弁護者、真理の霊があなたがたに用意され、与えられる」と言われたのです。「別の弁護者」とは、パラクレートスと呼びますが、「そばにあって呼んでくれる者」という意味です。自分一人では立ち向かえず、処理できない問題に助力を与えるものとして呼び出される弁護士の役を担うのです。迷い、恐れ、躊躇の中にある人間の勇気を鼓舞し、支援して、新しく歩みをさせる力です。

 

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。…わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのもとに帰ってくる。」

 

 みなしごにはしない、なんと慰めに満ちた言葉でしょう。私たちには弁護者(そばにあって呼んでくれる者)がいるので、みなしごではありません。

大きな苦しみや悲しみに出会うと私たちは孤独を感じます。みんなが普通に生活しているのに自分だけは特別だとひしひしと孤独を感じます。その時、弁護者が、耐えられない苦しみはなく、神さまが必ず道を拓いてくださると、私たちの内側から励ましてくださいます。新しい働きや生活を始めたり、仕事の上で困難が生じた時にも、弁護者が祈りへと導き平安を与えてくださるのです。

 

 慰めは家族や友人からの横からのものと、神さまからの縦からのものがあります。死(もしかしたら絶望という言葉で置き換えてもいいかもしれませんが)の前では、横からの慰めは限界があります。人は一人で死に立ち向かわなければならないのです。その時も弁護者が「わたしは世の終わりまでいつもあなた方とともにいる」(マタイ28:20)と励ましてくださいます。

もうすぐ、この霊が働く時が始まります。ペンテコステの出来事の日を知るのです。531日がペンテコステの日です。いつもなら、たくさんの人々が集まる日でもありますが、礼拝が行えるかわかりません。たとえ、集まることができなかったとしても、聖霊は、ちゃんと、皆さんのそばにいてくださり、導きを与えていてくださいます。なぜなら、イエスさまは、みなしごにはしないと約束していてくださるからです。

 

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。

 

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団344(とらえたまえ、わがみを)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)