2020/04/27

家庭礼拝のために。4月26日のために。

新型コロナウイルス感染拡大防止のために、当面礼拝を休止しています。
家庭で礼拝を守ってくださるように、式次第・説教をお届けいたします。


426 復活後第三主日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

家庭礼拝の第二週目となります。日本全体の取り組みがウイルスの感染拡大の防止になることを願います。でも、これによって、人と人とのきずなが失われることがありませんように。一緒に集まっていたことが、どんなにめぐまれていたことであったかに気づかされます。できなくなったことを数えるより、できることや今与えられていることを数えるようにしたいと思います。 神さまのお守りと祝福をお祈りいたしています。 杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団187(しゅよいのちのことばを)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

神様、御子はパンを裂くことによってあらゆる弟子たちにご自身を知らせてくださいます。贖いの働きをされる主イエスを見ることができるように、私たちの信仰の目を開いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録2:14A36-41

第二日課  1ペトロ1:17-23

福音書   ルカ福音書 24:13-35

13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

讃美歌 教団154(ちよこえたかく)

 

説教  「生きている〟という伝言」2020429日 ルカ福音書 24:13-35 

 

 神さまのみめぐみが皆さんの上に豊かにありますように。アーメン。

 

今起こっているコロナは、私たち個人を超えて、地域でもなく、日本やアジアを超えて、全世界、人類にとって大きな共有する問題となっています。一方、私たちのそれぞれの人生にも多くの問題があります。結婚であるとか、就職であるとか、あるいは子どもの教育問題であるとか、職場や夫婦、老後や日常の人間関係・問題と言われるものが沢山あります。

 

私はクリスチャンになってこれまで、ずっと考えてきたのですが、究極のところ、人間だれにもついてまわる問題は‶死〟なんだなあと実感してきました。死〟と聞いても、ピンとこない人は、死という時に〝絶望〟という言葉に置き換えていただいてもよいかもしれません。 死(=〝絶望〟)という問題が、私たちの生活のすべてに影を落としてきます。といいますのは、死んだらおしまい、“命あってのものだね”と世間では言いますが、死んだら何もかも終わりなのだ。死という大きなブラックボックス、黒い得体の知れないものの中にすべてが吸い込まれていってしまう。そして、それでおしまいになってしまう。そこでは希望を持てない、また喜びもなければ慰めるものもない。これが死というものの現実ではないかと思うのです。多くの人々がその死を何とか遠ざけよう、何とかそれに目を向けまいとして生きています。

 

 私たちは、今日か明日、死ぬことを知らないから、ふつうの顔をして生きている。もし、何日後に死ぬのだと決まっていたら、これは大変なパニックになるはずです。また、正気でおれません。しかし、どんなことがあっても、自分はまだ死なない、死ぬはずがないと信じようとする。そのような思いがあるから、生きているのでしょう。

 

確かに、死はこれでおしまい、これが私たちの通り相場です。死んだらおしまいと世の中の人は必ず言います。ところが、イエスさまのよみがえりは、まさにすべての希望を失わせ、不安と恐怖に投げ入れる死を打ち破って、「イエスは生きておられる」と、勇気と力、大きな慰めを与えてくれる事態でした。

 

イエスさまが死んで葬られ、弟子たちはみな失望落胆しました。自分たちが望んだ救い主にイエスさまは、当てはまらなかったからです。人々は、この世の中を造り変えて新しくしてくれる革命家を望み、クーデターを起こしてローマ帝国の圧制から自分たちを救い出してくれる方を期待したのです。ところが見るも無残に、あの十字架に無能無力な姿をさらけ出してしまった。多くの人々はがっかりし、希望を失ったのです。だから、今日の聖書に出てくるこの二人の弟子たちも、エルサレムを離れて、自分たちのふるさとに帰っていく途中でした。元の生活に戻っていくところだったのでしょう。

 

つい数日前に起こったイエスさまの出来事を、彼らは、お互いに語り合って帰る途中でした。そこへ、一人の人が近づき、こう言ったのです。「いったい何を話しているのだ」と。「いや、実は、あなたは知らないのですか。こういうことがあったのですよ」と話をしました。その中で、23節に「イエスは生きておられる」と語ったのです。「イエスは生きておられる」、そう仲間の者が教えてくれた。それを聞いたイエスさまは、「なんと心が鈍くて愚かな者たちか。どうして預言者が約束したことを信じられないのか」と、嘆いています。

不思議なやり取りですが、これは、何を私たちに語り掛けるのでしょうか

 

 確かに、私たちの生活にも弟子たちと同じように恐れがあります、不安があります、望みがありません。さまざまなことで心配します。思い煩います。そのときには、私たちの目はイエスさまから離れてしまっています。だから、弟子たちもイエスさまがいないと思って、一つの家に隠れ潜んでいました。そこに、イエスさまが現れてくださったので、初めて喜びにあふれるのです。イエスさまは死を打ち滅ぼしてくださった方です。このイエスさまにできないことがない。神さまはできないことがないお方です。

私たちが不安になっている、心配している事、到底手に負えないとあきらめようとしている事柄、それらは死を乗り越える力以上に手強いものでしょうか。私たちが絶望だと悲観している事柄は死を前にした恐れ以上に怖いものでしょうか?死の恐怖以上の怖いものはどこにもありません。イエスさまはその一番大きな恐れの源、死を打ち破ってくださった方です。その方は、悩み、心配、不安、恐れをどのようにでもできる方ではないでしょうか。私たちはそれを忘れている。「イエスは生きておられる」。この言葉は、私たちの望みがどこにあるのか、誰を見るべきなのかを語っています

 

イエスさまはもっと大きな心配である死を打ち破って、望みとなってくださったのです。よみがえって「わたしは(イエスは)生きておられる」と告げているのです。そのときに、「そうです。あなたは生きていらっしゃいます」と応答するときに、心に平安が生まれるのだと思います。

 

 神さまは、私たちがこの地上にあって悩みと悲しみと嘆きの中に過ごすことを喜ばれない。私たちを喜び歌わせ、感謝、賛美させてくださいます。そのただ一つの道はイエスさまに触れること。今、よみがえって生きてくださっているイエスさまに絶えず目を注いでいくとき、不安な時にあっても、喜ぶことができるのです。十字架の主を心に浮かべるとき、一番辛い時にこそ、一番近くにいてくださり、誰からも見放されたと感じるときも、主は決して見捨てずに、苦しみ私たちと付き合ってくださることを知るのです。そこに、深い慰めがあり、神の力と知恵とが備えられているのです。

  十字架の主は生きておられ、私と共にいてくださる。この恵みを覚えましょう。

主の平安が、今日を生きる皆さんの上に豊かにありますように。

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、またはふさしいものを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団217(あまつましみずながれきて)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)