2014/07/03


「言葉に聞き従う歩み」 
 
 
       
      熊本ルーテル教会 牧師 杉本洋一

「その時代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(創世記6:9

 

例年経験する梅雨の天候は、年により、所によって、想像を超える大きな変化を見せます。この前、東京三鷹では、では、雹(ひよう)が、一メートルを超えるほど降ったというニュースを聞きました。しかも、それが一部に集められて、ひどい床上浸水があったとのことです。3年前に起こった阿蘇での豪雨・白川の堤防決壊も思い起こします。最近では、竜巻も、集中豪雨によって災害が起こることさえも、決してよその世界の事でなく、しかも、他人事として聞くことはできません。

主の言葉に聞き従ったノアは、来る日も来る日も、箱舟をつくる仕事に追われました。箱舟の大きさも、半端なものではありません。長さは、三百アンマです(創世記6:15135メートル)。どのように作ったかを頭の世界で想像をすることは、今の技術があるわけではありませんから、当時のことを考えれば、簡単に作れたものではなかったはずです。協力者という手伝いが、どれほどいたことでしょうか。しかも、手の数が多少確保されも、継続して手伝ってくれる人の確保が、どれほど難しかったのではないでしょうか。食べる糧も確保しながらの箱舟つくりは、やはり私たちの想像を越えます。「なんで、こんないい日に船なんか作っているのか」「頭がおかしいんじゃないのか」「なせ、こんな場所に船が必要なんだ」との周りの声はたくさん聞こえてきます。

私たちも、日々の仕事や生活を送る中で、それ以外のことに精を出せば、周囲の声・ささやき・うわさを耳にするのは簡単なことです。仕事と趣味が区別つかなくなったという声も聞きます。はじめからできないことをやっているとか、空しい徒労と人間性への疑い、様々な目が注がれることに違いありません。

していることの目的、目標が見えません。なすことの主体は神さまであり、ノアは聞き従うのみです。神さまの言葉に聞き従う人の姿は、人々の目からは、奇異な、異常とさえ見える姿に映ったに違いありません。

晴れの日が続きます。そのような時に、ぽつんぽつんと、額や体に雨を感じはじめ、やがて、その雨は、水かさを増し、川から水があふれ、平野に水が覆い、山々が水で埋めされ尽くされていったのです。雨が降り続く日々だったのです。その時に、ノアの耳にした神さまの言葉がなんだったのか一人一人に思い出されるのです。

 
「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わないものは、皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ7:2627

 
しっかりとした土台の上に、自分の家を建てる教訓は、よく聞くところです。しかし、上の聖書の言葉は、人生の土台ということより、主の言葉に耳を傾けるかどうか、聞き従うかどうか、本当に心から聞こうとするのかです。

どのような時にも、私たちは、変わることのない神さまの言葉に、耳を傾け、従っていきたいと願っています。