2016/09/14

熊本るうてる 9月


「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ルカ14:11

日本福音ルーテル熊本教会

牧師 杉本洋一

この夏、リオ・オリンピックで金メダルを目指して連日熱戦が繰り広げられていました。陸上男子400メートルリレーでは、日本チームが銀メダルを獲得しました。ジャマイカのボルト選手とそのチームには敵なしという存在感を感じましたが、その中で、よく彼らは健闘したものだと思います。聞けば、勝因は、〝バトンのつなぎ〟だったと言います。それはチームワークと支え合いによって成り立つものです。

さて、オリンピック選手たちだけでなく、人間の心にある競争心は、だれも持っているものです。このような競争心とは人間の本能であって、競争原理は世俗社会の常識とさえ言えると思います。私たちの身の回りのものはすべて競争原理によって作られたと言っても過言ではありません。競争は決して悪いものではありません。品物で言えば、競争によって粗悪なものは淘汰され、より優れた商品が世に出回り、多く出回ることによって価格も安くなります。と同時に、このシステムに適合しない人も生み出されるという面もあります。それで、人々は少なくとも負け組にならないように頑張るのです。納得できるほどの自分にならなければならないという思い込みがあって、納得できるほどの自分にするために、人は努力し、闘争するわけです。

自分で自分を受け入れることができるようにするために、人よりも見栄えがするように磨きをかけ、いろいろな能力を身に着けようとします。これによって、自分で自分を受け入れ、自我を支えることができるのです。自我とは、人間の心の最も奥深いところにあるもので、自分を認識する心の中枢でしょう。

イエスさまは、私たちの目を「いと高き方」に向けさせようとします。

地上一万メートルから見れば、建物の高低差など見えません。人間の身長だってそうです。しかし、生きる世界のことだけに関心を寄せがちになる人間にとって、地上に這いつくばって生きている人間にとっては、その差が大事であり、人を蹴落としてでも上席に上がっていこうとし、人よりも自分の力が大事だと考えるのです。しかし、そのように生きることによって「いと高き方の子となる」という最大の幸いを見失ってしまうのです。イエスさまは、このような人間のあり方に対して、新しいものの見方・生き方を求めておられます。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と語り、ご自身の身をもって、十字架の死に至るまで頭を低くされました。