神さまの大きな愛を知った人
日本福音ルーテル熊本教会
牧師 杉本洋一
「人が義とされるのは行いによってではない」(ローマ書3:28)
あなたは、神さまを、どのような神さまとして描いておられるでしょうか。どのように神さまのことをイメージしているでしょうか。例えば、お父さんとしての神さまとお母さんとしての神さまは、捉え方が異なるでしょう。父権性が強いなら、男性的なイメージの「力」や「威厳」が表に出るでしょう。母なる神なら、「やさしさ」や「抱いてまもる」ことの印象が色濃く出るかもしれません。
さて、私たちのルーテル教会は、マルチン・ルターの流れを引き継ぐ教会です。このルターは、父・ハンスの強い願いのもとに、幼少の頃からラテン語を学び、寮に入らされ、算術、論理学などの学びをたくさんしました。エルフルト大学に法律の勉強のために、入学をしました。親は、官吏とか宰相にならせたいとの願いがあったからです。大学の休暇による帰省を終え、学校に戻る途中の道で、落雷に遭遇します。稲妻によって恐怖の体験をし、思わず、その時に口から出た言葉は、「修道士になります」というものでした。稲妻の体験も、想像してみただけでも恐ろしいものです。「修道士になる」というのも、深層心理からすれば、心の底にあったものが、恐ろしさの体験から、表に出て来たのでしょう。法律を用いた社会に接する職業より、目に見えない神さまと接する仕事の選択を思わず表明したのです。
厳しい日課に基づく彼の修道生活が始まり、聖書を読み、祈りや黙想の時を持ちました。しかし、あの時の、「修道士になります」との表明した時に感じていた神さまと、修道生活を送って、もっと深く、身近に感ずる神さまは、相変わらず厳しい方であり、裁きを感ずる神さまでした。決して愛の方とは程遠く、「ぬくもり」も「あたたかさも」感ずることなく、依然として、深い神さまの愛を知ることはありませんでした。修道生活をすればするほど、神さまは愛の方ではなく、厳しく、裁きの神でした。
修道生活というと人から見れば聖なる立派な生活でしょう。しかし、その「行い」によって、人は、清く聖なるものとされるのでないことを感ずるのです。そればかりか、修道生活において見えてくるのは、清さを勝ち取ろうとする自分の欲や醜さが頭をもたげ、ますます、神さまから離れていく自分を見つけるのでした。
結局、ルターは、それは自分で勝ち取ろうとしているものであり、「人が義(神さまの前に正しい)とされるのは、(律法の)行いによるのではない」(3:28)と気づくのです。しかし、それは、前からずっと聖書に書かれていたことだったのです。「行う」ことによってではなくて、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)が私たちに示されているのであり、「神の恵みにより無償で義とされる」(3:24)と確認したのです。神さまの大きな愛を知ったルターは、変わったのです。