2015/11/02

全聖徒主日 墓前礼拝 実施

11月1日は、全聖徒主日でした。この日の聖書の言葉は、あの「山上の説教」。イエスさまが、弟子たちを連れて、山に登り、語られた説教です。「幸いなるかな、心の貧しい者」です。この日に読まれたという山上の説教の言葉は、「悲しみ・貧しさ・迫害・」どのような状況にある者でも、幸いであるという主の宣言の言葉を耳にしました。
死んだ者も、この世にある者も、主の言葉によって、支えられ、行かされるのです。それがたとえ死んでいるものであってもです。
楽しいことばかりではない、いやむしろ、苦労・悲しみを背負いながら生きる私たちの人生です。
主の慰めの言葉は、単なる励ましではなく、支えであり、導きとなるのです。

午後からは、立田の熊本聖徒廟において、墓前礼拝の時を持ちました。 なお、墓地は、10月24日草取りとペンキ塗りがおこないました。



2015/10/31

教会学校では、ハロウィン❗️


子どもたちが集まり、ハロウィン!
牧師館にも、お菓子をもらいにきましたよ。みんなで作ったカレーをいただいて。シャロームで、お別れでした。
今度は、クリスマスが楽しみです。

2015/10/27

10月18日熊本地区歓迎会 フィンランドの夕べ

マルッティ・ポウッカ牧師ご夫妻、ビルピ・ソベリ牧師の三人が、熊本地区を訪れ、教会施設をお訪ねくださいました。これは、その日曜日の夕べ「フィンランドの夕べ」の地区歓迎会の後の記念写真です。
無事、3人の宣教師の先生は、27日(火)朝に、成田から、フィンランドに帰国されました。



2015/10/24

10月25日 宗教改革主日に寄せて


神さまの大きな愛を知った人

日本福音ルーテル熊本教会

牧師 杉本洋一

「人が義とされるのは行いによってではない」(ローマ書3:28

 

あなたは、神さまを、どのような神さまとして描いておられるでしょうか。どのように神さまのことをイメージしているでしょうか。例えば、お父さんとしての神さまとお母さんとしての神さまは、捉え方が異なるでしょう。父権性が強いなら、男性的なイメージの「力」や「威厳」が表に出るでしょう。母なる神なら、「やさしさ」や「抱いてまもる」ことの印象が色濃く出るかもしれません。

さて、私たちのルーテル教会は、マルチン・ルターの流れを引き継ぐ教会です。このルターは、父・ハンスの強い願いのもとに、幼少の頃からラテン語を学び、寮に入らされ、算術、論理学などの学びをたくさんしました。エルフルト大学に法律の勉強のために、入学をしました。親は、官吏とか宰相にならせたいとの願いがあったからです。大学の休暇による帰省を終え、学校に戻る途中の道で、落雷に遭遇します。稲妻によって恐怖の体験をし、思わず、その時に口から出た言葉は、「修道士になります」というものでした。稲妻の体験も、想像してみただけでも恐ろしいものです。「修道士になる」というのも、深層心理からすれば、心の底にあったものが、恐ろしさの体験から、表に出て来たのでしょう。法律を用いた社会に接する職業より、目に見えない神さまと接する仕事の選択を思わず表明したのです。

厳しい日課に基づく彼の修道生活が始まり、聖書を読み、祈りや黙想の時を持ちました。しかし、あの時の、「修道士になります」との表明した時に感じていた神さまと、修道生活を送って、もっと深く、身近に感ずる神さまは、相変わらず厳しい方であり、裁きを感ずる神さまでした。決して愛の方とは程遠く、「ぬくもり」も「あたたかさも」感ずることなく、依然として、深い神さまの愛を知ることはありませんでした。修道生活をすればするほど、神さまは愛の方ではなく、厳しく、裁きの神でした。

修道生活というと人から見れば聖なる立派な生活でしょう。しかし、その「行い」によって、人は、清く聖なるものとされるのでないことを感ずるのです。そればかりか、修道生活において見えてくるのは、清さを勝ち取ろうとする自分の欲や醜さが頭をもたげ、ますます、神さまから離れていく自分を見つけるのでした。

結局、ルターは、それは自分で勝ち取ろうとしているものであり、「人が義(神さまの前に正しい)とされるのは、(律法の)行いによるのではない」(3:28)と気づくのです。しかし、それは、前からずっと聖書に書かれていたことだったのです。「行う」ことによってではなくて、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)が私たちに示されているのであり、「神の恵みにより無償で義とされる」(3:24)と確認したのです。神さまの大きな愛を知ったルターは、変わったのです。