2020/05/23

家庭礼拝のために。5月24日のために。


524 復活後第七主日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

日常生活に向けて社会は少しずつ動き出しています。教会も、67日よりの礼拝再開に向けて、準備しています。しばらくの辛抱をお願いいたします。マスクや入り口での殺菌液の用意・間隔をあけた着席など新しい生活様式がありますが、いろいろなものを準備し、工夫をして、皆さんとお会いできる日を心待ちにしております。   杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団90(ここもかみの)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

栄光の神さま。み子イエス・キリストは私たちのために苦しみを受け、あなたの右に昇られました。私たちが苦しみの時も喜びの時もキリストとひとつに結び付け、世界をあなたの慈しみ深い臨在のもとにおいてください。あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録1:6-14

第二日課  1ペトロ4:12-155:6-11

福音書    ヨハネ 14:1-11

1イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 2あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 3永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。 5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

6世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。 7わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。 8なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。 9彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。 11わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 

讃美歌 教団310(しずけきいのりの)

 

説教  「あなたは、永遠の命に生きる」 ヨハネ福音書14:15-21

有名なドイツの哲学者(ハイデッガー)は「人は自分の死を信じていない」と言いました。私たちは、心の中で、自分は死なないと思っていると言うのです。しかし、それでも、身近な人の死は、自分にも死が起こるんだということを感じさせます。誰もよく親しまれた志村けんさんの死は、死を身近に感じさせました。加えて、この新型コロナウイルで亡くなった方が、世界で30万や40万人にものぼると聞けば、この病気の感染は、相当なもので、大きな出来事なんだとつくづく感じさせます。昔のことですが、私が小学生の頃に、近所の靴屋のタツちゃんが、人の命はお金があれば、いくらでも延ばすことができると言ったことが、妙に記憶に残っています。彼の家に病気のおじいちゃんがいたことや、金持ちだったこともあるかもしれません。でも、よく考えてみると、あながち、これはウソではありません。確かに、膨大なお金をかけ、高度な医療を用いてすれば、死期を多少は延ばすことはできるでしょう。しかし、決して、死を無くすことはできません。

新型コロナウイルスは、私たちに、「死」や「命」について深く考えさせました。

 

今日の聖書には、「永遠の命」という言葉が語られます。ずっと昔から人間は、生き続けることについて考えてきたと思います。そのために、不老長寿の薬を求めてきました。朽ちることのない永遠の美を求めてきました。たとえ、この身が滅んでも、自分が生きた事実が残るように、巨大な墓・建造物やしるしを刻んだりして、「永遠の命なるもの」を求めてきたと思います。

「永遠の命」と表現する言葉には二つの性質があります。「永遠」というのは、「終りなく続く」ということです。そして「命」は「限りある」ものです。つまり、‶死なない〟ということと‶死ぬ〟ものということです。永遠ということと命は、相容れないものですが、一つになっているものと気づきます。言っているのは、『永遠の命』とは、『いつまでも終ることのない、生きるための力』ということです。「永遠の命」とは、何かシンボルのようなイメージで、決してなくならないものとか、ずっとあり続けるもののような感じです。

その命を支えるために、私たちはいろいろなものを大切にしてきました。しばしば言われてきたのは、「私にとっては、お金が命です」です。こういう人にとっては、お金がその人を生かす力になるでしょう。「家庭が私の命です」これは、家庭がその人を生かす力であるということでしょう。健康・人間関係・趣味などなど、色々と、生きる力になるものがあると思います。

けれども、それが永遠に導くものであり、永遠の命につながるかと考えると、終りの無いものなんてこの世界にはありません。お金は無くなってしまえば自分を生かすことはできません。人であれ、健康であれ、それは、いつまでも、終ることなく、というわけにはいかないのです。

 

今、私たちは、私たちが描くぼんやりとした不確定な「永遠の命」のイメージについて、極めてストレートに、明確に「『永遠の命』とは、神さまを知り、イエスさまを知ることなのだ」聞きます。「神さまを知ること」と「イエスさまを知ること」は、ふたつで一つです。

別の箇所で、

「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」(147)、

「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(1245)と教えられました。イエスさまという方をじっと見つめると、神さまのことが分かる、というのです。

 

 今日の聖書の言葉は、イエスさまが復活後、弟子たちを訪ね、復活の事実を教えて歩く時に語られた言葉です。今年の復活節は、私たちは、新型コロナウイルスの感染拡大の中で過ごしています。全人類が死の不安の中にいます。その中にあって、私たちのために十字架にかかられたイエスさまは、復活された方として、家に閉じこもっている私たちのもとに来られ、私たちの中心に立ってくださいます。死の囲みの中で、私たちは人の子であるイエスさまを仰ぐのです。「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」と旧約聖書は伝え、人の子が上げられたのは「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」とヨハネ福音書は語ります。主を信じる者は、永遠の命を得るからです。

 

皆さん、心の中でイエスさまを思い描いてくださいませんか。十字架を思い描いてくださいませんか。その十字架は、イエスさまが十字架で命を捨ててくださるほどに、私たちを愛してくださるしるしです。イエスさまの十字架を見つめる時に、神さまの愛が見えてきます。その愛とは、たったひとりの子どもさえ与えてくださる、とてつもない大きな愛です。イエスさまを見るとは、自分がこのとてつもない愛で満たされ、愛されていることを知るということなのです。

この愛を知ることは、私たちが、どれほどに、神さまの目から尊い存在であるのかを知ることにつながっています。人が、どれだけ生きる力を失うことがあっても、お金の無さや、健康を損なうことがどれほどに、生きることを諦めさせようとしても、「あなたのためにイエスさまが十字架についてくださった」この事実を、無くすことは出来ませんいつまでも終ることがない、「永久保証」の愛なのです。この愛を知って「自分は、神さまのひとり子が命がけで愛してくださるほどに、特別で、大切な存在なんだ」このように受け取るなら、イエスさまを知ることは、その人を生きることへと駆り立てる、本当に素晴らしい力、その人の「命」となります。

神さまの愛の交わりは命の交わりです。皆さん。あなたは、その信仰の内にあるのです。

 

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。

 

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団517(われにこよとしゅはいま)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)

2020/05/20

土曜夕礼拝・聖研の開始について

休止していました土曜夕礼拝・聖研の開始に向けて
 
次の様に暫時開始いたします。

土曜夕礼拝(18:00-) 5月23日(土)より開始いたします。
聖研(水曜10:00-)  5月20日(水)より開始いたします。

なお、日曜礼拝は、6月7日(日)10:30- より行います。

2020/05/14

家庭礼拝のために。5月17日のために。


517 復活後第六主日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

教会の前に、この式次第・説教を封筒に入れて、通りゆく方に持って行ってもらおうと置いておきました。429日の週3部、53日の週7部、510日の週9部、と持って行ってくださる方がおられました。少しでも、神さまからの慰めと平安が与えられたらと思います。季節はもう、初夏を感じるころです。沖縄では梅雨に入ったと聞きます。等しくめぐみの中で生かされていることを思います。17日からの週も神さまのみ恵みに生かされて、お過ごしくださいますように。   杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団298(やすかれ、わがこころよ)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

永遠に生きておられる全能の神さま。あなたは天と地のすべてを一つに結び付けてくださいます。豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもたちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を授けてください。あなたと聖霊とともにただ独(ひと)りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録17:22-31

第二日課  1ペトロ3:13-22

福音書    ヨハネ 14:1521

15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 

讃美歌 教団292(はてしもしらぬ、うきよのうみの)

 

説教  「あなたは忘れられていない」 ヨハネ福音書14:1521

先週の日曜日は「母の日」でした。母の愛を心にとめて、感謝する日でした。今年の母の日は、新型コロナウイルスの影響で、カーネーションを渡したり、送ったりすることもできないような日だったかもしれません。また、天国のお母様へカーネーションを送った方もおられるでしょう。

悲しいことですが、世の中には、その母親の手に触れない子どもがいます。かって、日本中に、捨てられた子どもが多くいましたが、現在では少なくなったとはいえ、全く無くなったのではありません。「こうのとりのゆりかご」(「赤ちゃんポスト」)です。ここから車で10分ほどの、島崎の慈恵病院にあります。そこに預けられた子どもたちが、やがて養子になったり、里親に育てられたりしていますが、それができない子どもたちもいることでしょう。乳児院や施設で育てられる子どもあるとのことです。私たちの身近に知る婦人宣教師モード・パウラスは、たくさんの子どものお母さんとなりましたが、熊本で、このような働きが興(おこ)されるのは、パウラス先生の働きともつながっていることと思います。

 

子どもを捨てたくて、捨てる親など、いないでしょう。いいとか悪いというのではなく、そこには、そうせざるを得ないさまざまな理由があるのでしょう。そうしたことを解決するために、母親が子どもを捨てるといったことが起こらないようにと、さまざまな取り組みがなされてきました。しかし、それを防ぐことができない悲しい現実があります。神さまは、さまざまな理由で、母から捨てられた子ども、また、母の愛を十分に受けられなかった人たちに言われます。

 

「たとえ女(母親)たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ49:15

 

もしかすると、わたしたちの中にも、母の愛を十分に受けられなかったこともあるかもしれません。しかし、幼い頃や若い頃の心の傷がいやされるのは、簡単なことではないでしょうが、神さまの愛によって、それを補ってあまりあるものを受けることができるのです。信じる者は、神さまの愛によってそれを乗り越えることができる力強い言葉が与えられています。「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう」(詩篇27:10)とあるように、主に信頼する者を決して見捨てないとの確信・勇気を、この聖書の言葉に見出すのです。

 

今生きているわたしたちの時代は、いろいろな情報、価値観、様々な出来事、特に今回の世界的に起こった新型コロナウイルスのように、たくさんのものが錯綜して、目の前を飛び交っています。何が本当のもので、何に頼って歩んでいけばよいのかがわからない時代です。今日の聖句と一連の言葉、「こころを騒がせないがよい―信じなさい」(4:12)というのは、私たちが選び取っていかなければならない態度の勧めです。つまり、私たちの体と心がバラバラに引き裂かれてしまうことのないように、イエスさまを選び取り、信じ、生きていく態度のことではないでしょうか

 

弟子たちは、これからイエスさまが、「私はいなくなる」と告げられました。それは、父である神さまのもとへ帰るからです。これまでのように、イエスさまを身近に見ることや接することができなくなるからです。彼らは、不安を抱いたのです。孤独になるからです。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」どうしたらよいのかと尋ねたのです。イエスさまは、「別の弁護者、真理の霊があなたがたに用意され、与えられる」と言われたのです。「別の弁護者」とは、パラクレートスと呼びますが、「そばにあって呼んでくれる者」という意味です。自分一人では立ち向かえず、処理できない問題に助力を与えるものとして呼び出される弁護士の役を担うのです。迷い、恐れ、躊躇の中にある人間の勇気を鼓舞し、支援して、新しく歩みをさせる力です。

 

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。…わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのもとに帰ってくる。」

 

 みなしごにはしない、なんと慰めに満ちた言葉でしょう。私たちには弁護者(そばにあって呼んでくれる者)がいるので、みなしごではありません。

大きな苦しみや悲しみに出会うと私たちは孤独を感じます。みんなが普通に生活しているのに自分だけは特別だとひしひしと孤独を感じます。その時、弁護者が、耐えられない苦しみはなく、神さまが必ず道を拓いてくださると、私たちの内側から励ましてくださいます。新しい働きや生活を始めたり、仕事の上で困難が生じた時にも、弁護者が祈りへと導き平安を与えてくださるのです。

 

 慰めは家族や友人からの横からのものと、神さまからの縦からのものがあります。死(もしかしたら絶望という言葉で置き換えてもいいかもしれませんが)の前では、横からの慰めは限界があります。人は一人で死に立ち向かわなければならないのです。その時も弁護者が「わたしは世の終わりまでいつもあなた方とともにいる」(マタイ28:20)と励ましてくださいます。

もうすぐ、この霊が働く時が始まります。ペンテコステの出来事の日を知るのです。531日がペンテコステの日です。いつもなら、たくさんの人々が集まる日でもありますが、礼拝が行えるかわかりません。たとえ、集まることができなかったとしても、聖霊は、ちゃんと、皆さんのそばにいてくださり、導きを与えていてくださいます。なぜなら、イエスさまは、みなしごにはしないと約束していてくださるからです。

 

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。

 

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団344(とらえたまえ、わがみを)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)




2020/05/08

家庭礼拝のために。5月10日のために。


510 復活後第五主日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

礼拝の休止は、5月いっぱいまで続くことになりました。予定していたたくさんのことが、いましばらくお休みです。

人生には何度となく、苦難と出会います。神様はいつも私たちに愛を注いでくれていますから、どんな苦境に立たされたとしても、希望を携えて歩んでいきましょう。

「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。ローマ5:3-5  杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団312(いつくしみふかき)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

全能の神さま。御子(みこ)イエス・キリストは道であり、真理であり、いのちです。私たちが互いに愛しあい、主の戒(いまし)めの道を歩んで、御子(みこ)の復活の命を世界中の人々と分かちあうことができるように恵みを与えてください。あなたと聖霊とともにただ独(ひと)りの神、永遠の配者、御子(みこ)、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録7:5660

第二日課  1ペトロ2:261617


1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

讃美歌 教団270(しんこうこそたびじを)

 

説教  「こころを騒がせるな」 ヨハネ 14: 114

 

 コロナ後の私たちの生活は、新しい生活様式になると言われだしました。すべての面において、出てくることでしょう。今回、起こったコロナの出来事は世界的規模の出来事ですから、それも想像する以上の急激な変化となるのだと思います。人間はいつも様々な経験や失敗を通して、学びをし、変化してきたのです。私たちは、今日が昨日のように続くことを願いますが、今日は昨日と同じではないのです。つまり、いつも変わってきたのです。でも、それに伴って、気持ちがついていくものではありません。しっかりと受け止めて、こんな時にも、いたずらに不安や心配を抱くことのないようにしたいと思います。このような時、アメリカの神学者ラインホルト・ニーバーの祈りの言葉を思い出します。

神よ、

 変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、

変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。     (「二―バーの祈り」)

 二―バーの祈りは、変化が起こる中での〝自分のありよう〟〝自分の態度〟を気づかせます。時間と共に、いろいろなものは、変化していくのでしょうが、たとえ変わっていくとしても、それを受け入れる知恵と勇気と見分ける目を与えてください、と神さまに祈ることができるのは、私たちにとって大きな励みですし、ちからです。

 

将来に限らず、日常生活において、ああしなくちゃとか、こうしなくちゃとかを、心配り、気配りに神経をする減らす私たちです。このような私たちに、イエスさまが語り掛けます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。深く考えさせられます。この言葉に慰められ、励まされます。なぜなら、そこには私たち自身が立たなければならない約束の言葉がはっきりと語られているからです。

これは、イエスさまが十字架にかけられる前に、弟子たちに語った言葉です。この後を読むと弟子のトマスが語った「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(5節)とあります。もう一人の弟子フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(8節)と語ります。どちらの言葉にも、このとき弟子たちが抱えていた大きな不安が隠されています。弟子たちは今までイエスさまだけを頼りに生きて来ました。ですから、そのイエスさまが自分から離れてどこかに言ってしまうとことを聞いたとき、驚きを覚え、不安を感じたのです。イエスさまは「父なる神を信じなさい」と言うのですが、神さまと聞いてもやっぱり本当にそれで大丈夫なのだろうかと不安を抱いたのです。そして、彼らはその不安を自分では解決することができなかったのです。

神さまを素直に信じることが出来たらなんとさいわいでしょうか。しかし、残念なことに、私たちは、自分の思うように、素直な気持ちになれないことだらけです。なぜならば、自分の持っているものを断念したり、能力を放棄したりすることを躊躇するからです。しかも、神さまはすぐに応えてくださらないと思うからです。もしかしたら、神さまなんていないんじゃないかと思ったりします。(いえ、こう考えることは決して不信仰ではありません)

そのとき私たちが忘れてはならないことがありますこのイエスさまの言葉は私たちの歩みが、順風満帆な航海のようであると約束している訳ではないからです。それはこの言葉をイエスさまから実際に語られた弟子たちのその後の歩みを見ても明らかです。この後、キリストの教会は何度も危機に直面しながら歩み続けました。その中でどうしてこんなことが起こるのだろうと言う体験を弟子たちはしたのです。しかし、歴史の事実はキリストの教会がむしろこのような危機を通して、世界に広がり、また成熟していったことを教えています。危機に直面するとき私たちは不安を抱きます。なぜなら自分の力ではそれを解決することができないと思えるからです。しかし、神さまはそのような危機を通してむしろご自身の御業を豊かに表してくださるのです。

 

 ‶私たちのいのち〟の責任者は、主イエスとその父なる神なのです。だから私たちは、この神さまにどこまでも信頼を寄せて歩みたいと考えるのです。そして神さまはその信頼を寄せる私たちに聖書の約束が真実であることを教えてくださるのです。

こんな時に、神さまは、人やしるし、あるいは御言葉を通して、すぐ近くにおられる事を明らかにされるのです。それらが助けとなり、新しい道が示されるのです。後になってから、あああれは神さまの御計画だったとか、導きだったとか思える時があったりします。神さまは自ら造られた物をお忘れにはならなかったとわかるのです。

 

私と父を信頼しなさい、頼りにしなさい、と。私のこの手の中からあなた方を奪い取るのは絶対に不可能だ、と。私はあなた方をしっかりと支え、気をつけているのだ、と。私が知らない事があなた方におきる事はないのだ、と」。

私たちに対するイエスさまの約束がわかりやすく言い直されています。私たちを支えてくださるイエスさまに信頼し、そのイエスさまを私たちのために遣わしてくださった父なる神の計画に私たちは信頼して、いまのこの時を過ごしてしていきたいと思います。

 

神さまは私たちを決して忘れることはありませんでした。神さまの言葉に導かれる私たち一人一人を忘れることはないのです。神さまはこのようにして私たちのために語られた約束の言葉を実現させようとしています。

 

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。

 

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団494(わがゆくみちいついかに)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)