2020/05/08

家庭礼拝のために。5月10日のために。


510 復活後第五主日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

礼拝の休止は、5月いっぱいまで続くことになりました。予定していたたくさんのことが、いましばらくお休みです。

人生には何度となく、苦難と出会います。神様はいつも私たちに愛を注いでくれていますから、どんな苦境に立たされたとしても、希望を携えて歩んでいきましょう。

「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。ローマ5:3-5  杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団312(いつくしみふかき)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

全能の神さま。御子(みこ)イエス・キリストは道であり、真理であり、いのちです。私たちが互いに愛しあい、主の戒(いまし)めの道を歩んで、御子(みこ)の復活の命を世界中の人々と分かちあうことができるように恵みを与えてください。あなたと聖霊とともにただ独(ひと)りの神、永遠の配者、御子(みこ)、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録7:5660

第二日課  1ペトロ2:261617


1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

讃美歌 教団270(しんこうこそたびじを)

 

説教  「こころを騒がせるな」 ヨハネ 14: 114

 

 コロナ後の私たちの生活は、新しい生活様式になると言われだしました。すべての面において、出てくることでしょう。今回、起こったコロナの出来事は世界的規模の出来事ですから、それも想像する以上の急激な変化となるのだと思います。人間はいつも様々な経験や失敗を通して、学びをし、変化してきたのです。私たちは、今日が昨日のように続くことを願いますが、今日は昨日と同じではないのです。つまり、いつも変わってきたのです。でも、それに伴って、気持ちがついていくものではありません。しっかりと受け止めて、こんな時にも、いたずらに不安や心配を抱くことのないようにしたいと思います。このような時、アメリカの神学者ラインホルト・ニーバーの祈りの言葉を思い出します。

神よ、

 変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、

変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。     (「二―バーの祈り」)

 二―バーの祈りは、変化が起こる中での〝自分のありよう〟〝自分の態度〟を気づかせます。時間と共に、いろいろなものは、変化していくのでしょうが、たとえ変わっていくとしても、それを受け入れる知恵と勇気と見分ける目を与えてください、と神さまに祈ることができるのは、私たちにとって大きな励みですし、ちからです。

 

将来に限らず、日常生活において、ああしなくちゃとか、こうしなくちゃとかを、心配り、気配りに神経をする減らす私たちです。このような私たちに、イエスさまが語り掛けます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。深く考えさせられます。この言葉に慰められ、励まされます。なぜなら、そこには私たち自身が立たなければならない約束の言葉がはっきりと語られているからです。

これは、イエスさまが十字架にかけられる前に、弟子たちに語った言葉です。この後を読むと弟子のトマスが語った「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(5節)とあります。もう一人の弟子フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(8節)と語ります。どちらの言葉にも、このとき弟子たちが抱えていた大きな不安が隠されています。弟子たちは今までイエスさまだけを頼りに生きて来ました。ですから、そのイエスさまが自分から離れてどこかに言ってしまうとことを聞いたとき、驚きを覚え、不安を感じたのです。イエスさまは「父なる神を信じなさい」と言うのですが、神さまと聞いてもやっぱり本当にそれで大丈夫なのだろうかと不安を抱いたのです。そして、彼らはその不安を自分では解決することができなかったのです。

神さまを素直に信じることが出来たらなんとさいわいでしょうか。しかし、残念なことに、私たちは、自分の思うように、素直な気持ちになれないことだらけです。なぜならば、自分の持っているものを断念したり、能力を放棄したりすることを躊躇するからです。しかも、神さまはすぐに応えてくださらないと思うからです。もしかしたら、神さまなんていないんじゃないかと思ったりします。(いえ、こう考えることは決して不信仰ではありません)

そのとき私たちが忘れてはならないことがありますこのイエスさまの言葉は私たちの歩みが、順風満帆な航海のようであると約束している訳ではないからです。それはこの言葉をイエスさまから実際に語られた弟子たちのその後の歩みを見ても明らかです。この後、キリストの教会は何度も危機に直面しながら歩み続けました。その中でどうしてこんなことが起こるのだろうと言う体験を弟子たちはしたのです。しかし、歴史の事実はキリストの教会がむしろこのような危機を通して、世界に広がり、また成熟していったことを教えています。危機に直面するとき私たちは不安を抱きます。なぜなら自分の力ではそれを解決することができないと思えるからです。しかし、神さまはそのような危機を通してむしろご自身の御業を豊かに表してくださるのです。

 

 ‶私たちのいのち〟の責任者は、主イエスとその父なる神なのです。だから私たちは、この神さまにどこまでも信頼を寄せて歩みたいと考えるのです。そして神さまはその信頼を寄せる私たちに聖書の約束が真実であることを教えてくださるのです。

こんな時に、神さまは、人やしるし、あるいは御言葉を通して、すぐ近くにおられる事を明らかにされるのです。それらが助けとなり、新しい道が示されるのです。後になってから、あああれは神さまの御計画だったとか、導きだったとか思える時があったりします。神さまは自ら造られた物をお忘れにはならなかったとわかるのです。

 

私と父を信頼しなさい、頼りにしなさい、と。私のこの手の中からあなた方を奪い取るのは絶対に不可能だ、と。私はあなた方をしっかりと支え、気をつけているのだ、と。私が知らない事があなた方におきる事はないのだ、と」。

私たちに対するイエスさまの約束がわかりやすく言い直されています。私たちを支えてくださるイエスさまに信頼し、そのイエスさまを私たちのために遣わしてくださった父なる神の計画に私たちは信頼して、いまのこの時を過ごしてしていきたいと思います。

 

神さまは私たちを決して忘れることはありませんでした。神さまの言葉に導かれる私たち一人一人を忘れることはないのです。神さまはこのようにして私たちのために語られた約束の言葉を実現させようとしています。

 

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。

 

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団494(わがゆくみちいついかに)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)