ルカ福音書14:7-14
今日のみ言葉は、結婚式や、昼食や夕食という宴会への招きのことについて書かれています。具体的には、招待を受けた時の席の座る場所・上席・末席のことと、お返しのことについてです。
第一に、招ねかれた時に、上席に着くなというのです。
わたしたちの社会でも、このような情景はよくあります。日本人の場合、反対に自分が先に下座に座り、「どうぞ、どうぞ」と、上座を譲り合う風景がよく見られます。しかし、それを素直に聞いて、誰かが自分より上座に座ると、内心そのことが気になります。「あの人よりわたしの方が上に座るべきなのに」と、口には出しませんが心の中でこだわっていることがあります。
イエスさまは、「神は、あなたたちの心の中をご存じである。」と言われるのです。
神に造られた者として、神のみ前には誇るべきものが何一つとしてないというのが大きな前提です。人に対しては誇るべきことがあっても、神の前では誇るべきことが何もないのが人間です。だから、誰に対しても神の御前にあるかのようにへりくだることが聖書的な謙遜なのです。そのような心をもって生きることを神はわたしたちに望んでいらっしゃるのです。
第二のお返しの件ですが、もののやりとりというのは、何がいいか、本当に頭を悩ませ、難しいものがあります。
「返礼」に関してですが、今日の社会では、葬儀の時の香典返しとかあるいは、結婚の時のお返しとか、というのはもうひとつの慣習というのができています。それにのっとって行動したほうが楽だということがありますから、それはそれでいいと思いますが、しかし、そうした「お返し」ということが一つの常識になってしまって、それが、心や、愛の世界にまで入りこんでしまい、愛のもつ本質まで、もののやりとりと同じものにしてしまって、愛そのものを破壊してしまうのではないかと思います。
愛というものが、「ギブアンドテイク」ということになってしまってしまったならば、もう愛というものがなりたたなくなってしまうということも考えられます。
キリスト者にとっては、実行することも大変なことです。イエスさまの謙遜になりなさい、お返しができない者を招きなさい、という教えには、この世の常識との真逆があるでしょう。 この教えはキリスト者ではない人にとっては、まったく覚えのない価値観です。
なぜ身分が高い人がそれなりの待遇を求めてはならないのか。そもそも身分が高かったり、財産があったりすることは、その人の才能や場合によっては資産家の家に生まれたことに拠るものだったりします。社会一般に、よい才能や資産家の家に生まれたことは悪いことではなく、むしろ自慢できる事と、羨ましがられる対象でありえます。
「お返しができない人を招きなさい」とは、「人からの報いを求めるな」ということでしょう。
貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人との出会いの中に、神様との出会いがあり、神様の思いを知ることができるということです。また、これらの人たちは、実際にそのような障がいを持っている人を指しているとも言えますが、歳を重ねていく中で体力が衰え、体の中の様々な機能が落ちてきている人のことを指しているとも解釈できると思います。あるいは、まだ体力が備わっていない子どものことを指しているとも言えます。あるいは、病気に罹患している人のことを指しているとも言えます。これらの人たちとの出会いは、健康で特に不自由さがないと思っている人の隠されたマイナス部分に気付かせ、その人を与える人へと、優しさを差し出す人へと、謙遜な人へと導き、その人に変化を来らせます。
つまり、私たちすべての人間を指すのです。
不自由さがなく健康だ、元気だと思っているところに、実は大きなマイナスがあり、不自由さを持っていると思っているところに、実は大きなプラスがあるということです。
不自由さは一見するとマイナスのイメージがありますが、しかし一つ見方を変えれば、健康で何不自由のない人にとって、持つことのできないプラスの賜物と言うことが出来ると思います。
お返しができないわたしが招かれている神の国の祝宴――それを指し示しているのが、この後に行われる聖餐です。ここには、お返しできない者を招き給う神の恵みが満ちあふれています。私たちが、あの徴税人のように、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言って聖餐卓の前に進み出ることを通して、それが分かるはずです。
ほんとうは、何一つお返しできない私たちなのですが、キリストの体と血を受けて、私たちが神の完全な愛を受け取るのです。そうするならば、そこからわずかばかりでも、報いを求めない愛の業が生まれてくるに違いありません。
そうあってこそ、「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という言葉をも、しっかりと受け取ることができるのです。