2013/09/17

9月15日 説教

途方もない愛と喜び
人という漢字は、人間の、頭があり手があり、足があるという姿から来ている様子から表されています。そして、一本の棒と一本の棒が支え合っている姿を通して、「支え合っている」と表します。

聖書に使われるギリシャ語の人とは、「アナ」(上を)と「オーポン」(見る)という事から、上を見ると表すそうです。“プロスオーポン”と言うそうです。


上を見る者という意味でしょう。

下を見つめて歩くのはしばしばあることです。うまく事が運ばなければ、うなだれてしまいます。怒ることがあれば、すぐ、下を向くことはしなくても、顔を上に向けて、胸を張ることもないでしょう。やがて、恥じて下を向けることもあるのです。

しかし、元々、誰も、胸をはって、生きたいと思っているものです。その証拠に、古今東西問わず、笑っているのに、下を向くことはなく、(悲しみをこらえて、上を向いて歩こうというのはのぞいて、)泣いているのに、上を向く姿を見たことはありません。

いい表現だと思いますが、下を向きがちな、私たち人間に、顔を下に向けて歩むのではないんだと教えている様な気がいたします。



さて、今日は、人生の先輩を心に留める日です。旧約聖書は、年を重ねられた人たちが、その人生の悲喜こもごもを超えてこられたことを踏まえ、その白髪を見て、栄えの、輝く冠だと言いました。

人間は、人生の中で、たくさんの失敗を経験しています。失敗をすればそれを隠したくなるのは常で、失敗が少なく、見せたいと思っているのですし、心情的には、失敗者ではなく、成功者のように振る舞いたいと思っているのが、大半の見方でしょう。

しかし、それがかなわず、人間には、たとえそれが、恥ずかしいことでなくても、恥ずかしさを感じて、うつむいて歩むことが多くあるというのも、事実です。


人は必ず、失敗をするものです。振り返って、あの時は、どうしてあんなことになったんだと思うことがあります。

こころに不安が生まれ、自由に生きたくても自由に生きられないという事も、経験をするものです。

どんなに気を付けていても、正常な判断ができず、よい判断ができないという事もあります。眠られない夜も迎えたり、生きる希望を感じない朝を迎えることもあるかもしれません。

そのような中で、もし、光を見つけられない夜や、光があたらない朝のような時に、自分を助けてくれるような方があって、受け止めてくれる方がいると思うことができるならば、私たちにとって、どんなに大きな、力強さのある救いであり、慰めなのではないでしょうか。



「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカによる福音書15章~17節)というイエス様がされたたとえ話の中でも有名な箇所でそれまでにも何度も聞いたことがありました。


一匹を見失った羊飼いは、必死に、その一匹のために、なりふり構わず、野山を探し回るのです。谷を降り、絶壁のでこぼこした小さな突起物である岩を必死につかんでわたり、いばらの野をも、歩いていくのです。

羊は、元々、極端な近眼だという事を聞いたことがありますから、前を見つめて歩くこともままならないのです。ですから、もしかすると、自分で自分が迷ったことすらわからないかもしれないのです。羊飼いの心配なんて全く考えず、周囲が見えずに夢中で草を食んでいるだけなのです。

迷ってしまった羊に対して、探し回ろうとする羊飼いの姿がここに示されます。

たとえ話の中で、人間は羊だったり、一ドラクマ、わずか35グラムの銀貨だったりしますが、神の態度は変わりません。人間がたった一ドラクマの価値しかなかったとしても、神は見つけるまで探してくださることを言うのです。


ドラクマ銀貨の話は、ファリサイ派の人々にもよく通じる話でした。ルカは、フィリサイ派の人々は、「お金を愛していた」(ルカ16:14)と言っています。ファリサイ派の人々は、お金持ちであったとしても、一ドラクマでも、大事にし、四つん這いになっても、探したことでしょう。ですから、イエスさまはおっしゃるのです、「あなたたちは、お金を亡くしたら探すでしょう。大したお金でも、躍起になって、探すのが当たり前と思っているでしょうか。神が、人間を探し、救い出すために、同じようになさるという事が理解できないのですか。あなたが、一ドラクマの価値しかないとしても、神はそこにあるものを全部動かして、最後の一人を見つけるまでさがしてくださるという事が理解できないのですか」



実は、私たちは、聖書のこの言葉の中に、一貫して見出すことは、神さまの持つ視点です。人間には、神の愛の対象としての人間の価値があり、神さまが苦労をいとわず、とことん探しもとめてくださる価値の故に、私たちは、支えられているのです。

百頭の羊、十枚のドラクマ銀貨の一枚一枚、すなわち、人間が、一人一人神の愛の対象です。

百頭が、九十九頭になってしまっていいとか、十枚の銀貨が、九枚になってしまってかまわないとうのではありません。

神さまの前で、人間は、あなたは、無名な存在ではなく、一人一人が、名前を呼ばれる愛の対象なのです。

私たち、逆境の中を歩む時にも、神さまはその歩みをご存じであるというのは、「途方もない愛と喜び」なのです。