10月 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」
(1ヨハネの手紙4章7節)
聖書の親しみのある有名な言葉です。〝いい言葉ですね、さあ、いかがでしょうか、やりましょう〟とお伝えしたら、すんなり、だれもが、ご納得いただけるでしょうか?
実は、「愛しなさい」という言葉は、大きな矛盾をもつ言葉でもあります。「愛」は、自発的な心の中から生まれてくるはずのものですが、それに反して「~しなさい」という命令が加われば、強制される意味合いが加わります。
自分の中で自己矛盾を感じながら、「愛さなくちゃ」と感じながら、イヤイヤながら、「ほんとは嫌なんだけどな、でも、仕方ない、愛さなくちゃ」と、「愛」のやり方、形式を見せながら、内心は、「できないことを知りながら」愛することを行うこともあるのです。それだから、偽善なんていう言葉も浮かんできます。
これまでにも、「自分のことは自分でしなさい」とか、「人に迷惑をかけちゃいけません」と同等のように、「愛しなさい」という言葉を、人に伝えていることもあります。
これは、教育やしつけの世界では、しばしば、起こりうることです。
私たちは、「愛しなさい」という事を教えられて、ここから始まるのではありません。実は、愛の出発点は、「愛されている」という事を感ずるところから始まります。
神さまのメッセージとして伝えることは、いつも、あなたは「愛されている」という事から始まります。人は、気分がいい時には、人生に起こる様々な変化球の出来事を受け入れることができます。苦難でも、悲しみさえも。しかし、ひとたび、自分の精神状態が不安定になると、穏やかではいられません。ちょっとの事で怒ったり、イライラしたりします。穏やかな心の持ち主であっても、いつも一定ではありません。私たちは、胸に手を当てて、自分のこころの内側のことを思い起こしてみましょう。人をねたんだり、うらやんだり、時には恨みさえ感じる気持ちを持ちながら生活をしているのです。
人間の愛を超える神さまの愛は、そのような、私たちを、愛していてくださることを教えるのです。この愛を知る時に、小さな愛でありながらも、それを持ちながら、受けた愛を隣人と分け合って生きていくことができるのです。
皆さん、お父さんも、お母さんも、おじいさんも、おばあさんも、神さまから愛されています。 神さまは、自分の子どものイエス・キリストを、十字架にかけられることをお許しになりました。ふだん、罪は、誰も、自分には関係ないと感じているでしょう。しかし、神の子どもを十字架につけるほどに人間の罪は、深いのです。その罪に気づいたのは、私たちが互いに愛し合うためだったのです。 私たちは、子育てだって、家庭だって、対人関係だって愛することに疲れることがあります。でも、だいじょうぶ、「あなたは、ちゃんと、神さまから愛されている」のです。