2015/01/05

1月4日の礼拝 福音書

 マタイによる福音書 2章1-12節
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
  そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」といってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

2014/12/27

12月28日の礼拝 福音書

 ヨハネによる福音書 2章1ー11節
 三日目に、ガラリヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスもその弟子たちも婚礼に招か
れた。 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 イエス
は、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 言った。「だれでも初めによいぶどう
酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたはよいぶどう酒を今までとって置かれました。」 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

2014/12/21

12月21日の礼拝 福音書

 ルカによる福音書 1章67-79節
 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
 主はその民を訪れて解放し、
 我らのために救いの角を、
 僕ダビデの家から起こされた。
 昔から聖なる預言者たちの口を通して
   語られたとおりに。
 それは、われらの敵、
 すべて我らを憎む者の手からの救い。
 主は我らの先祖を憐れみ、
 その聖なる契約を覚えていてくださる。
 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
 こうして我らは、
 敵の手から救われ、
 恐れなく主に仕える。
 生涯、主の御前に清く正しく。
 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
 主に先立って行き、その道を整え、
 主の民に罪の赦しによる救いを
   知らせるからである。
 これは我らの神の憐れみの心による。
 この憐れみによって、
   高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
 我らの歩みを平和の道に導く。」
  幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

2014/12/13

12月14日の礼拝 福音書

 ヨハネによる福音書 1章19-28節
 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか]と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、べタニアでの出来事であった。

2014/12/06

クリスマスに寄せて


「どんなきれいな飾りがあったとしても」

「来るべき方はあなたでしょうか」(マタイ11:2

牧師 杉本洋一

 


ほしいものを手に入れようとすれば、インターネットを通してもすぐ注文でき、しかも、翌日配達されます。航空券も新幹線の券もホテルも、申し込んで予約も支払いもできます。必要な依頼をしたいときには、携帯電話で連絡もできます。食べたいものがあれば、注文すると、すぐ運んでくれます。行きたいところがあれば、すぐにも出かけられるでしょう。待つことなしに、実現・実行することができる社会です。今、私たちの世界は、待つ必要がなくなってきた社会といえるかもしれません。

 このような今の時代に、「待つこと」を強いられるのは、時代の流れと逆行しているともいえます。人々は、計画したことを、すぐ行動に移し、願っている欲求を短時間で満足すことができるのです。

でも、本当は、「待つ」ことは、与えられる出来事の喜びを倍増させることも知っているです。人は、「待つ」時間の中で、多くのことを考え、物事の整理をし、たとえ、それが与えられなかったり、実現できなかったりしても、行うべき態度のゆとりと幅が与えられるのを気づくのです。

「待つ」ことは、本来の人間のありのままの生活に備わっていることで、自然なことなのです。逆に、「待たず」に、与えられたり、実現できることは、「不自然」なここと気づかなくなってしまったのが、現代に生きる私たちの不自由さであり、さみしさです。

1225日クリスマスまでのこの時、正確には、24日の日没までが、アドベントです。暦では、神のみ子イエス・キリストの誕生を「待つ季節」です。待っていることを大切にするシーズンです。教会は、この「待つ」大切さを伝えたいと願ってきました。イスラエルの民は、苦しみの生活の中で、救い主の誕生を待ちました。それはもう何千年の昔から待ってきたことでした。長く、長く、彼らは待ちました。涙が枯れてしまうほどに、長い何世代もの受け継がれてきた救世主の誕生を待ってきたのです。

私たちの人生にも、待たなくてはならない時が、あると思います。待つことによって、苦しみが癒えたり、喜びが増し加わったりすることもあるでしょう。クリスマスは、その、「待つ」ことの向こう側に、神さまの約束があり、救いと喜びの約束があるのを知るのです。

救い主を待ち望まないクリスマスは、どんなに美しい飾りがあっても価値がありません。救い主の到来がわたしたちの最大の関心でなければ、クリスマス飾りは何もわたしたちにもたらしてくれません。わたしたちの救い主を待つ姿勢が、クリスマスの意味と価値を人々にクリスマスの喜びをもたらすのです。

クリスマスの静かな喜びが、皆さんの上に豊かにありますように。