「どんなきれいな飾りがあったとしても」
「来るべき方はあなたでしょうか」(マタイ11:2)
牧師 杉本洋一
ほしいものを手に入れようとすれば、インターネットを通してもすぐ注文でき、しかも、翌日配達されます。航空券も新幹線の券もホテルも、申し込んで予約も支払いもできます。必要な依頼をしたいときには、携帯電話で連絡もできます。食べたいものがあれば、注文すると、すぐ運んでくれます。行きたいところがあれば、すぐにも出かけられるでしょう。待つことなしに、実現・実行することができる社会です。今、私たちの世界は、待つ必要がなくなってきた社会といえるかもしれません。
このような今の時代に、「待つこと」を強いられるのは、時代の流れと逆行しているともいえます。人々は、計画したことを、すぐ行動に移し、願っている欲求を短時間で満足すことができるのです。
でも、本当は、「待つ」ことは、与えられる出来事の喜びを倍増させることも知っているです。人は、「待つ」時間の中で、多くのことを考え、物事の整理をし、たとえ、それが与えられなかったり、実現できなかったりしても、行うべき態度のゆとりと幅が与えられるのを気づくのです。
「待つ」ことは、本来の人間のありのままの生活に備わっていることで、自然なことなのです。逆に、「待たず」に、与えられたり、実現できることは、「不自然」なここと気づかなくなってしまったのが、現代に生きる私たちの不自由さであり、さみしさです。
12月25日クリスマスまでのこの時、正確には、24日の日没までが、アドベントです。暦では、神のみ子イエス・キリストの誕生を「待つ季節」です。待っていることを大切にするシーズンです。教会は、この「待つ」大切さを伝えたいと願ってきました。イスラエルの民は、苦しみの生活の中で、救い主の誕生を待ちました。それはもう何千年の昔から待ってきたことでした。長く、長く、彼らは待ちました。涙が枯れてしまうほどに、長い何世代もの受け継がれてきた救世主の誕生を待ってきたのです。
私たちの人生にも、待たなくてはならない時が、あると思います。待つことによって、苦しみが癒えたり、喜びが増し加わったりすることもあるでしょう。クリスマスは、その、「待つ」ことの向こう側に、神さまの約束があり、救いと喜びの約束があるのを知るのです。
救い主を待ち望まないクリスマスは、どんなに美しい飾りがあっても価値がありません。救い主の到来がわたしたちの最大の関心でなければ、クリスマス飾りは何もわたしたちにもたらしてくれません。わたしたちの救い主を待つ姿勢が、クリスマスの意味と価値を人々にクリスマスの喜びをもたらすのです。
クリスマスの静かな喜びが、皆さんの上に豊かにありますように。