5月31日 聖霊降臨日礼拝 ※教団讃美歌を用います。
今年の5月31日は、教会の大事な記念の日であるペンテコステ・聖霊降臨日です。私たちは、コロナ感染対策のためにこの日集まることができませんが、それでも、ちゃんと神さまは私たちに、聖霊を注いでくださいます。このことを、しっかり心に刻みたいと思います。一か月半ぶりに6月7日より礼拝が再開されます。 杉本洋一
熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第
黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)
主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)
神さま。あなたはこの日、あなたを信じる者に聖霊を送って心を開いてくださいます。聖霊の光で導き、私たちがすべてにおいて正しく判断し、あなたの平和の内にいつも喜ぶことができるようにしてださい。あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
第一日課 使徒言行録2:1-21
第二日課 1ペトロ12:3b-13
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
讃美歌 教団333(しゅよ、われをば)
説教 「ゆるされていることを忘れない」 ヨハネ福音書20:19-23
今、生活様式が変わると言われ始めています。日常のマスクはもちろんのこと、飛沫感染防止の衝立やシールド、座り方や、座る方向まで変わろうとしますし、通勤方法・働き方や、どの仕事が生き残るとかも、予言的に語られています。日常というものは、このようにして、突然、ガラッと変わることがあるのを忘れてならないでしょう。
私は、牧師として、本来、人は、心と心の接触の中で育ち、ぬくもりの触れ合いを求めているものですが、これから、ソーシャルディスタンス(=人と人との物理的距離を保つこと)からはじまって、人と人との心の間隔が広がっていくことが心配になります。
さて、今日はどのような日かと言えば、聖霊が、弟子たちの内面に働きかけ、すべての人が救われるようにと、弟子たちのうえに下り、これによって、彼らが全世界へ、神さまのことを伝えるために出かけていくことになった記念の日です。だから、別の言い方で、‶教会の誕生日〟とも言ったりします。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 (使徒言行録2:1-4)
イエスさまを信じる群れは、いろいろな言葉で語りはじめ、愛の心をもって諸国民へ仕える旅に出かけていったのです。(キリストの復活から50日目の日曜日をペンテコステ(ギリシャ語で50の意)と言いました)
コロナの影響で、人の心の交流がどうなるか心配する中で、このペンテコステの言葉に勇気づけられます。そうだ、ちゃんと聖霊の導きがあるから、私たちは、「励まされ歩んでゆくことができるんだ」と聞いて、心強くなります。
福音書の言葉に、弟子たちは、復活したイエスさまのことを聞かされて、復活を信じられなかったとあります。あれほど常日頃から教えを受け、信頼することを学んだはずの人々でした。そのような中、彼らが集まっていた時、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたの心が穏やかになるように」と語り、手とわき腹を見せて、「シャローム(平和があるようにという挨拶)」と言いました。主は、言葉をかけただけでなく、弟子たちに体を見せました。彼の手とわき腹の十字架にかけられたときの釘の跡、槍で体を貫かれた痛々しい傷跡をです。イエスさまの手とわき腹に残るこの傷は、弟子たちがリーダーであるイエスさまを見殺しにした動かぬ証拠でもありました。弟子たちは、逮捕されたイエスさまを見捨てた当事者であり、咎められてもしょうがない後ろめたさと信頼することのできなかった弱さを痛いほど感じていたことでしょう。しかし、イエスさまは弟子たちを咎めることなく、体を見せてもう一度、シャロームと言ったのでした。
弟子たちは生々しい傷跡の残るイエスさまを見て、自分たちが犯した、言い逃れのできない罪に直面したことと思います。そしてイエスさまから「なぜわたしを見殺しにしたのか」と責めを受けると覚悟し、心が不安と恐怖で満たされていたところに、イエスさまから「あなたがたに平和があるように」という言葉を与えられました。この言葉は弟子たちにとって、裁きを予想していたところに訪れた、まったくもって予期しない‶ゆるし〟でした。イエスさまに咎められる、裁かれる、そういう不安と恐怖に満ちていた弟子たちの心が一気に解放されたことでしょう。自らが犯した罪に対する裁きから逃れられないと感じている人、いよいよいままでのツケを支払う時が来たと自覚している人にとって、ゆるされるということは何物にも代えがたい喜びに他なりません。
「あなたがたに平和があるように」。ヘブライ語の翻訳では、シャローム・ラーカムです。「シャローム」は「平和」、「ラーカム」とは「あなたがたに」を意味します。シャロームという言葉は平和以外に平安という意味もあり、心が穏やかな状態を指しています。ユダヤ人にとって心が穏やかになるのは、神さまが共にいてくださると感じるときです。日本人も似たような感覚を持っていると思います。受験や手術など大事のときに神社のお守りをぎゅっと握り締めるのは、不安の中にあっても神さまがこの場にいて力を発揮してくださいと祈っているのでしょう。
弟子たちはイエスさまから負い目を赦され、喜びに満たされました。イエスさまは続けて弟子たちに、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と語りました。このセリフは難しいことではなく、「あなたがたがわたしに赦されてうれしかったのなら、あなたもあなたに対して罪を犯し、裁かれるべき人、裁かれて当然な人をゆるしてあげなさい」ということです。私たちがゆるされる喜びを伝播させていけば、この世から不安は消え、世界が平和に満たされる、そう語っているのです。
聖霊降臨は、弟子たちが、全世界へ出ていくことになった日です。いま、私たちもイエスさまの弟子です。ゆるしの中で生きています。宣教の旅に出かけて行ったということは、私たちの日常の生活という旅の中で、神さまの愛を携えて生活していきなさいということです。
日常生活の中で、わたしたちはつい自分の思いが先行して、他人を裁いてしまいます。ゆるされて生きているわたしたちですから、ゆるされた喜びのうちに生きていきたいと思います。「あなたがたに平和があるように」というのは、私に与えられた言葉ですが、私たちに与えられた言葉です。イエスさまは、私たち一人ひとりに語り掛けてくださっています。
これからの私たちの社会が、たとえ変わっていこうとも、心に壁や隙間ができることのないように、祈っていきたいと思います。そのために、神さまの愛の中に生かされているあなたを、神さまは必要となさるのです。
人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。
信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)
われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。
アーメン。
※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)
祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)
主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)
天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。
讃美歌 教団520(しずけきかわのきしべを)
終わりの祈り(十字を切ってよい。)
全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)