2020/05/03

家庭礼拝のために。5月3日のために。


53 復活後第四主日礼拝  ※教団讃美歌を用います。

 

出来事の裏には必ず意味があると思います。一般的にと言いますか、この世の常識と言いますか、そこから受け止める意味ではなく、もう一つの見方が用意されています。それは、「信仰」という見方を通して受け止める意味です。今すぐに、答えが見出せなくても、生活の横に置きながら考えてもいいでしょう。この生活は「この私にとって何を意味するのか」を。 神さまのお守りと祝福をお祈りいたしています。 杉本洋一

 

熊本・玉名教会/家庭で、個人で、礼拝を守るための式次第

 

黙祷(しばらく心を落ち着けて静かな時を持ちましょう)

 

讃美歌(声を出して歌うのが望ましい)教団354(かいぬしわがしゅよ)

 

主日の祈り(読むという形で、主日の祈りに代えます。)

私たちの羊飼いである神様、あなたは私たちひとりひとりの名を呼んで、死の谷を越えて安らかな地へと導いてくださいます。あなたの家に用意されている喜びの宴に向かって確かな足取りで歩むことができるよう、御声をもって私たちを導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

第一日課  使徒言行録2:42-47

第二日課  1ペトロ2:19-25

福音書   ヨハネ福音書 10:1-10

1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである

 

讃美歌 教団517(われにこよとしゅはいま)

 

説教  「わたしはあなたを守る囲い」 ヨハネ福音書 10:1-10  

 

いま、ステイホーム(STAY HOME)、〝家にとどまっていなさい〟この言葉が、全世界中の合言葉になっています。コロナウイルス蔓延拡大を防ぐために、人と人との接触を避けましょう、家から出ないようにと、くりかえし、くりかえし呼びかけられています。三密(さんみつ)という言葉も聞き慣れてきましたが、密集を避けて、人の集まるところに行かないというのはもちろんですが、なるべく人が集まらないようにしましょうというのです。普通、私たちは、人にうつされることを心配しますが、人にうつすこともあるのです。だから、接触を止めましょう、と言われるのです。自分は大丈夫という根拠のない自信を持つ人々が集まって、もし感染爆発が起きたら、連鎖的に病院や社会機能が崩壊していくことにつながるからです。

パチンコ屋さんに人が集まるのがテレビのニュースで流れていました。県や市からお店を開かないでくださいと呼びかけがあっても、営業を止めないお店があるのを報道していました。変なこと言わないでくださいと言われるかもしれませんが、あれを見ていて、私は、行列の中の一人が、もしかして、自分が写っているかもしれないなあという気がしました。えーっ、パチンコ好きだったんですかと言われるかもしれません。そうではなくて、好きなものはやめられないとか、ちょっとくらいならいいかとか、これくらいならいいだろうという自分の姿です。出歩きたいし、人の集まりも好きだからでもあります。

自分はぜったいに病気にうつらないとか、自分は病気をうつさないとか、ぜったい自分は当事者にはならないという思いが、心のどこかにあって、それが映し出されたのがあのパチンコ屋の場面の映像なんだなあと私には映りました。

 

前置きが長くなりましたが、ひつこいほどに言われる昨今の報道のように、イエスさまは、これと同様、ひつこいくらいに強調します。何度も何度も、語られるフレーズに「わたしは~である」というのがあります。そのような時には、〝本当に!本当に!〟と強調の言葉が出てきます。それが、「はっきり言っておく」です。私たちがよく知っている言葉「アーメン」があります。「いいですかよく聞きなさい!」と言っているのですが、アーメンが、必ず、二回続けて使われ、(ギリシア語ではアメーンといいます。日本語ではアーメンと言いますが。)アメーン、アメーンとつかわれて、私は~である(ギリシア語でエゴー、エイミーと言います。:エゴと言うのは私で(エゴイストのあのエゴです)、エイミーは~ですという意味です)と言われます。

今日の聖書の言葉では、イエスさまはこう言われました。強調しているのを思い浮かべてください。「はっきり言っておく」「わたしは門である」というのです。これは、ヨハネ福音書14章で「わたしは道であり、真理であり、命である」というのと同じで、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と語られた事と、内容的に同じです。

 門である私を通ってこそ、真の命に至るのだというのです。ヨハネ福音書は、その冒頭でイエスさまについて独特な表現で描きます。1:1「初めに言があった。「言(ことば)」は神と共にあった。「言」は神であった。1:4「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と。暗闇として表現される人間は、言も、神も、光も理解しようとしません。

 ヨハネ福音書では、そのイエスさまを神と一緒にいる言として描き、その言の内に命があって、この真の命こそが暗闇の中で輝く光だと言います。ところが、今日の聖書の箇所では、イエスさまは、命を捨てると言われます。暗闇の中に輝く光であった命を捨てるというのです。それが良い羊飼いであることの証しなのだというのです。命を捨てる、それは十字架の死を指しています。それは、イエスさま自身が暗闇の中に立たれるということを意味するのです。

 

 闇と聞けば、闇を好きな人はだれも、いないでしょう。よっぽどのことがない限り、だれも自分の内に闇を持っていることは気づきません。罪人と言われようものなら罪人ではないと言い返すでしょう。他人を指さし、あの人は闇を持っているというかもしれません。しかし、自分の内にある闇は認めようとしません。それほどまでにかたくなな私たちです。

 私たちのうちに深く抱える闇、私たちは自ら近づくことも恐ろしく不安な闇。すべての光を呑み込み、命を呑み込む深い闇。イエスさまは、闇を抱えた私たちのために命を捨ててくださり、しかも、共にいてくださる。狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる雇い人と違って、イエスさまは共にいてくださる。誰も近づけないほどの闇を抱えた時にも、イエスさまただひとりは、命を捨ててでも共にいてくださるのです。

 イエスさまお一人は、私たちを知ってくださっている。見放しはしない。そのイエスさまの語りかけは、私たちが、自分のありよう・裸の自分を知るときに、私たちを支え、私たちの慰めとなるのを気付くのです。囲いの中に守られ安らぐ羊のほかに、囲いの中にも入れずにいる羊をも、このイエスさまが招いてくださり、共にいてくださる、誰もが、排除されず、イエスさまに招かれ、そして一つの群れとして導かれるのです。

イエスさまが、このようにして、徹底して私たちと共にいてくださること、私たちを闇の中に生きるのを放置されず、命を捨てて闇の中に共に立ってくださり、そして新しい命を得られる時、つまり復活において、私たちをもその命へと招いてくださるのです。

このようにして、私たち1人ひとりに近づいて、共にいてくださる。イエスさまが、とことん闇の中で共にいてくださるのです。

 私たちにこの導きが与えられていて、今朝、私たちには、この主であるイエスさまがいつも共にいて支えてくださるのを聞くのです。

 

 どんなに私たちが孤立することがあっても主イエスさまは共にいてくださる、わたしたちがどんなに深い闇に呑まれそうになっても、最後まで私たちと共にいてくださる、だから、私たちは、この主イエスさまに導かれて、苦しむ者と共に歩む者であり続けたいと願います。羊飼いである主イエスさまは、私たちがどんなに臆病でも、慌てふためくことがあったとしても、共にいてくださいます。

 私たちが、主イエスさまの伴ってくださることに支えられ、共に苦しみ、共に悩み、共に喜ぶ者となる時、すべての部分が互いに補いあい一つの体のように一つにされるのです。

 

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安とめぐみが、あなたの内にあって守っていてくださいますように。アーメン。

 

信仰告白(声を出して唱えるのが望ましい)

 われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。 

 アーメン。

 

※献金(教会での礼拝が再開する時を覚えてささげてもよい)


 

祈り(※自由に、または、ふさしい祈りを心にとめて祈る)

 

主の祈り(声を出して祈るのが望ましい)

 天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。    アーメン。

 

讃美歌 教団154(ちよこえたかく)

 

終わりの祈り(十字を切ってよい。)

全能の神さま。あなたは悲しむ人の慰め、苦しむ人の力です。今、このような状況において、あなたの子らが悩むとき、私(たち)の祈りを聞いてください。困難の中を歩むすべての人を憐れみ、慰め、喜び生きる力を与えてください。マラナ・タ、主よ、来てください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

 

黙祷(しばらく静かな時を持ちましょう)